だが、もう為方がないときばつかり騒ぐから、逃げて行く女に手当もやれずさ。」
「逃げて行くやうな女でもかはいいものですか。」
「そりやさうとも。僕の方ぢや決して憎くないんだからね。ああして僕をすてて行つても女の身で差当り困るだらうと思つて、どうにか出来るまで辛抱して居てくれといつでも頼むんだ。女と云ふものは酷《ひど》いよ。景気がわるいと騒ぎ出すからな。」
「奥さんと別れたとき、おさびしくはなくつて。」
「それは寂しいさ。ああまたひとりものになつたと思ふと、世の中がまつくらになるやうに思ふね。」
「それでも新しい方《かた》がお出来になればいいでせう。」
「さあ。さうだが前の女もやつばりかはいいね。」
 私はこんな会話を半意識的に聞いて居た。先月私が伊豆の転地先から帰つて来ると藤浪君が留守中のことを話した。その後で茶を酌み乍ら、藤浪君が女房を離縁したと云ふことを自分から云つた。
「僕を脅《おど》す積《つも》りだつたんだらう、離縁状に判を押せと云つて来たんです。よしと云つてすぐ署名捺印した。そして僕から戸籍役場へ直接郵送してしまつたんです。するとあの離縁状は私の本心でないからつて、嬶が手紙をよこしたが、それはもう届を発送したあとだつたから、今頃は驚いてるでせう。」
「無茶のことをするね、君。」
「なあに金が出来れば又どうにもなりますよ。さうだが今の僕の境遇ですから困るんです。」
 かう云ふ藤浪君の態度は、今は貧乏故、すてて行く女に手当もやられぬことを憾《うら》みとすると云ふことの外、何の未練もないやうに見えた。けれど今きいてゐれば、あの無頓着な、どちらかと云へばちとずぼらのすぎる男の胸にも、女に逃げられた時の寂しみを味つてゐるんだと私は思つた。
 その中《うち》に女中が膳をもつて来た。
「姐さん五勺でいいから、」と藤浪君は酒を誂《あつら》へて、
「景気をつけよう、」と云つて独りで陽気になつて居る。私も起きて箸をとる一人となつた。
「こちらのお話は面白いですねえ、」とお糸さんは私に話しかけた。
「本統に奥さんがおありなさらないの。」
「なあにいい加減のことよ。それでも君がどうかしたいつて云ふんなら。」
「あたしがどうしようたつてねえ、貴方。」お糸さんは藤浪君を見てはれやかに笑つた。
「僕の方はすぐでもいいんだがね。ただいつまでもくつついて離れないつてのが欲しいよ。お糸さんならそこは確かだらうと思ふ。」
「わかりませんよ。景気がわるくなると逃げだす方かもしれません。」
「串戯《じやうだん》は串戯だが、お糸さんはまだないの、」と私は詞を改めた。
「そんな気のきいたものがある位なら。」
「ないつてことがあるかね。」
「ほんたう。そんなものがあれば大変ですもの。」
「何が大変なんだ。」
「うちがですよ。それはなかなかむづかしいんですから。」
「むづかしいつて、お糸さんは『桔梗』の娘分だらう。」
「ええ。」
「それでどうして。」
「とても駄目なんです。もうあきらめてゐますわ。」
「あきらめる年でもあるまい。一体いくつになるね。」
「あたし、じこくのみです。」
「巳年《みどし》と云ふと、とかく執念深いだらう。」
「いいえ、おなじ巳でも一白や三碧とはちがひますの。縁の薄い星ですつて。」
「僕もじこくのみだ。ぢやお糸さんも二だね。僕もやつばり星にまけてるんだ。」と藤浪君が云つた。
「貴方も星まはりが悪いんですわね。」
「じこくのみは三十二か。それならまだ盛りと云ふもんだ。今の内ならどうにもなるだらう。」
「もう遅うござんすわ。考へてごらんなさい。どんなかたが来てくれますか。殿方で三十五六で独り身だと云ふ方は、何かそれには訳がありませう。」
「さうさなあ。女房にさられたとか、死《しに》あとで子供があるとか。さもなけりや身がもてないとかだらうね。」
「だもんですから考へて見ますと、おそろしくなりますの。と云つてまさか二十代の人ももてませんでせう。」
「それもさうだな。けれどさうしてゐたら、心細くはないの。」
「たよりないとも思ひますわ。行先のことなど考へますとね。けれど男の方ほど宛《あて》にならないものはないやうな気もしますわ。」
「浮気もの相手の商売をしてゐるから、そんなところが目につくんだ。」
「僕はまた女ほど宛にならんものはないと信じて居る、」と藤浪君が云つた。
「さうぢやありませんよ。女の方がまだたしかですよ。」
「君がさう云つても駄目だよ、」と私は藤浪君に云つて、
「お糸さんは、女買にゆくときの男を知つてる丈で、まじめなときの男を目に入れないんだから。」
「大さう話がむづかしくなりましたこと。あ、貴方の華魁《おいらん》ね。あのしともひきましたよ。」
「さうかい。一ぺんあひたかつたな」
「うそばつかり。これですもの、殿方はあてにならないわ。」
 食
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