事を終つた頃私達の隣の間へお客が来た。間の唐紙《からかみ》をたて切る女中の後からちらとその客の様子を見て取つた。夫婦ではなさ相な若い男女の二人連であつた。廂髪《ひさしがみ》に結《ゆ》つて羽織を着流したすらりとした肩付は、商売人ではない。
「やつてるなあ。」藤浪君がおさへる様な声をして笑つた。
「そんなに岡焼《おかやき》なさるから奥さんに嫌はれるんですよ。」お糸さんも亦忍び声で云つて笑つた。私も笑つた。
日脚が短い。五時にはあかりがついた。夜の商売だからと云つてお糸さんは帰り支度をした。そこまで送らうと云ふので三人揃つて出かけた。
「貴方方おまゐりは。」
「稲荷様なんぞどうでもいい。」
「でもあらたかですよ。」
「心願するかね。」私は藤浪君を振り向いた。
「例の一件が成功する様につてか。」
「とにかくいらつしやいな。」お糸さんは要館《かなめくわん》を出て左の本堂の方へ行く。私達もついて行つた。堂のうらを通つて右へ曲ると、社務所がある。お札やお米を受ける所もある。其向うがお穴様だ。お糸さんは油揚《あぶらあげ》を買つてお穴様へ供へた。そして御鈴《みすず》を何遍もふつた。微《かすか》に柏手《かしはで》もうつた。長いこと礼拝をした。やがて暗い穴の中へ杓子を入れて砂を三杯ほど紙袋につめた。
「なにするんだい、」と私が問うた。
「これですか。お砂を戴いて行きますの。之を庭先にまいておきますの、商売繁昌のおまじなひに。」
それから本堂の前へ出た。そこにもお糸さんはお参りをした。私達も引きつけられたやうになつて、真実心でお参りをした。
「お土産《みやげ》は。」
「もう沢山ですわ。いろいろ有難うござりました、」と云つて二歩三歩お糸さんはあるいたが、
「今夜いらつしやらないの、」と云つた。
「ああ、病人だからね。」
「さうでしたわねえ。ぢやしつれいします。どうぞお近いうちに。」
私達は赤い大きな鳥居の傍で、お糸さんの小走りで帰つて行く後姿を見送つた。
[#地から1字上げ](明治四五・六・八―一〇稿/「スバル」明治四五・七/『畜生道』所収)
底本:「定本 平出修集」春秋社
1965(昭和40)年6月15日発行
※底本のルビは片仮名で表記されていますが、外来語を除きすべて平仮名に直して入力しました。
※作品末の執筆時期、初出、初収録本などに関する情報は、底本では、「/」にあたる箇所で改行された3行を、丸括弧で挟んで組んであります。
入力:林 幸雄
校正:松永正敏
2003年5月6日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全9ページ中9ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
平出 修 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング