、」と種田君は沁沁《しみじみ》感じ入つて居つた。
それから一年の間は私の病気の記録の外何もない。去年の十二月の初めに内のものが帝劇へ行つたらお糸さんに遇つたと云ふ話をして居つたきり、噂もなかつた。梅はもう遅く桜はまださかない今年の三月の中頃であつた。病上りの身体で少し疲れも来たから、穴守へでも行つてゆつくり遊んで来ようと思つた。友人の藤浪君と二人づれで行くことにした。夫《そ》れでもどうやら物足らない様に思つたが、ふと病中にきいたことを思出した。帝劇で遇つたときお糸さんが羽田に居ると云つて居つたと、内の者が帰つてから話をしたその事である。ひよつとしたら羽田へ旅館でも出して居るのかもしれない、さうとすればその内へ行つてやればいい。すぐ「桔梗」へ電話をかけさせた。
「お糸さんが電話口ヘ出ました。」と執次《とりつぎ》の者が云ふ。をかしいと思つて、自分で話して見ると、羽田に居ると云ふのは何かの聞違《ききちがひ》で、やはりあの内に居るんだと云ふことだ。
「もしお前さんが羽田へ行つてるのなら、尋ねようと思つてね。」
「いいえ、あたしはやつぱり内ですよ。貴方がた羽田へいらつしやるの。」
「これから行かうつてんだ。どうだ、一しよに行かないかい。」
「本統ですか。」
「本統とも。」初めは本気でもなかつたが、おしまひに今これから行くから支度をして待つてをれと云ふ約束になつて電話を切つた。
「さあ行かう。」私は藤浪君をせき立てた。出がけに不意の来客などがあつた為時間が少し延びた。八ツ山下で電車を下りた。其あたりは往来の人で相変らずの雑沓だ。鉄道線路の上に跨《またが》つて居る橋の上には、埋立工事の土車《つちぐるま》の運転を見ようとして、誰も誰も一寸《ちよつと》足をとめて見る。「こらつ、たつちやいかん、」と云つて査公がやかましく逐払つてゐる。払はれた人が通りすぎもせぬうちに又新らしい人が立ちどまる。査公は終日「こらつ」を繰り返さねばならぬのであつた。
お糸さんは待ちあぐねて居つた。
「かつがれちやつたのかとも思ひましたが、電話がまじめなお話ですし、そんなわるさをなさる方でないし………。」
「どうもお待ち遠さま。」
「あら、そんなに改まつて、何ですね。もう此頃はおよろしいんですか。」
「まあ生命《いのち》丈は取りとめたよ。」
「それはお目出度うございました。一体御病気はどんな………。」
「肋膜さ。」
「さうですか。うちのおもちやもやつぱり。」
「肋膜をやつてるの。」
「ええ、赤十字病院へ行つてますの。も二月ほどになります。」
「そりや大事な金箱を痛めて困るね。此病気は長いからな。」
お仲さんの酌んで出した番茶に喉を霑《うるほ》して三人づれで出かけた。
館の門をはいると、女中が式台《しきだい》の処へ出迎して居る。
「妙なお客が来ると思つてるだらう。」私は女中の方を見乍ら云つた。
「男二人に女が一人つてんだからな。」藤浪君も笑つた。
「その女もこんなに汚《きたな》いおばあさんですものねえ。」
果して女中の眼の中には判断に迷つたらしい色がただよつて居た。
「おとまりでいらつしやいませうか。」座敷の都合でもあるのか、此三人の正体をさぐる材料にでもするのか、女中はかうきいた。
「とまるかも知れんが、とにかく二時だ、御空腹と云う処だ。」
「かしこまりました、」と云つて女中は奥まつた座敷の二階に通した。
上日《うはひ》がいいので、電車から橋を渡つて赤い鳥居の並んだ途をあるいて来る間に、全身は少し汗ばむ程であつた。座敷へ落着くと軽い疲労を覚えて私はすぐ横になつた。わづらつた左の肋膜がまだ疼《いた》むので右に臂枕をした。お糸さんは枕をさがしてきて、お寒いからつて私のマントを取つて上へかけてくれた。
「やつぱりやせていらしつてね。」
「まあ見てくれ、こんなだ。」私は寝ながら左の腕をさしのべた。
「いたいたしいこと。あたしはこんなに、」とお糸さんは右の袖をかかげて見せた。節の短い円く肥つた腕ではあるが、女らしいふくらみがないのであつた。
「強さうだね。」藤浪君はかう云つて、
「僕はどうだ。」がんぢやうな前膊《ぜんはく》の皮膚はやや赤味を帯びて、見るから健康を語つてゐる。
「いい体格だね、」と私は惚れ惚れしてそれを飽かず見入るのであつた。
私はだんだん眠けがさして来た。お糸さんと藤浪君とはいろいろ面白いことを話合つて居る。
「ぢや今はおひとり。」お糸さんが藤浪君にきいた。
「独りだ。先月八人目の嬶《かかあ》ににげられたんだ。」
「どうなすつたの。」
「何にもしないが逃げるんだ。」
「そんなことがあるもんですか。」
「実際だ。八人のうち、二人に死なれて、六人に逃げられたんだ。どうかと云つて手を合せて拝むんだけれど、みんな逃げてしまふ。それも僕の景気のいい時ならいいん
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