か見えまい。俺は気はづかしくたまらなかつた。
見ると書生は誰も来て居ない。「どうしたんだ」ときくと、愛子は、
「私一人ぢやいけませんか。」
かう云つて嫣然《につ》とした。そして、
「自働車が来てゐます。」と云つて出口の方を目で指した。
俺は愛子と二人で自働車にのつた。車は滑《なめらか》に、音も立てず、道路の人を左右によけつつすべるやうに走る。愛子が身じろぐごとにさやさやと衣《きぬ》ずれがして、香料の薫りが快く俺の官能をそそる。俺はすつかりいい気もちになつてしまつた。
こんなにされてしまつて俺は今はただ肉体に生きてゐる丈だ。俺はもう畜生道に陥ちてしまつたのであらう。さうして俺は生活費を得んが為に、この疲れた身体を働かせて居るのにすぎない。大家とか先輩とか云ふことは、俺の様な落伍者を葬る誄詞《るゐし》なんだ。俺はそんなことはどうでもいい。俺は愛子に抱かれて死ぬんだ。死んだら愛子はどうなるであらう。そんな事はちつとも考へることなしに、俺は心安く死ぬんだ。
[#地から1字上げ](大正元・八・一四稿/「スバル」四巻九号大正元・九/『畜生道』所収)
底本:「定本 平出修集」春秋社
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