因である。陪審制度はそこの欠点を補はうとするのが目的だ。陪審官も人間であるから、矢張《やはり》神通力がない。誤認があるかも知れない。けれども今の裁判官に任せて置くよりも、数等、数十等正確な事実の認定が出来る。少くとも今の裁判官のするやうな、疑はしいものは之を罰すると云ふ、惨忍酷薄な認定がなくなる丈でも、人民は幸福を享ける訳だ。
 先日青木に遇つたら、今の裁判は畜生道《ちくしやうだう》だと云つた。
「大分|酷《ひど》いことを云ふねえ」と云つて俺は笑つた。
 だが科学者は、生命の根源は細胞にありと云つてゐる。人体は蛋白質と脂肪と、含水炭素とから成立つてゐるだけだと云つてゐる。健康を害する行為はすべて不正であるとさへ結論してゐる。精巧と粗雑との差はあるにしろ、猿も人体も構造が同一である。そして其系統は直線的であると云つてゐる。畜生道はここにも其|発足点《ほつそくてん》を根づけてしまつた。俺が法律を学んで、その蝋を噛むやうな学理に頭を作つて、物質の姿をのみ追つて、心霊の影を外《よそ》に見た結果、俺は一日一日の生活を作ることを知つて居る丈のものとなつてしまつた。酒屋《しゆをく》に沈湎《ちんめん》すること、それが俺の命の全部であつた。かうして十年をすごして来たとき俺は荒淫逸楽に飽きて来た。そして其生括の終りの幕を引いてくれたのは愛子である。
 俺が初めて愛子の長い髪を撫でたときは、まだ十八の舞妓《まひこ》であつた。俺があれの脂粉の香をいつくしみ初めて、一切の淫蕩を捨て去つてから二十年になる。愛子がもつて居たあらゆるものは、みんな俺がものとなつたと思つたとき、俺は実にあれの肉体の所有者になつたのにすぎないと云ふことに気が付いた。そして俺の心は却つて愛子の掌中に握られてしまつて居たのだ。俺が心に空虚が出来てくれば、愛子はすぐに其柔かな肉をもつてその空虚を填塞《てんそく》する。いつの間にか俺は緋《ひ》の友禅《いうぜん》の座蒲団の上に坐るやうになつた。軽井沢へ別荘も立てた。日本食と洋食と別別に料理番も置いた。置酒高会《ちしゆかうくわい》もする。俺の生活費は段段|嵩《かさ》んでくる。愛子は何でも俺を本位として俺に賑やかな生活を与へるのに専念して居るらしいが、その為俺の趣味は混乱した。三味線と※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]イオリンと、能、芝居、漢詩、俗謡、帝劇の女優、哥沢振《うたざはぶ》りの踊。伊勢|音頭《おんど》の作りかへもさせられた。俺は外ヘ出る必要もなくなつた。柔媚《じうび》を四畳半に求むることも出来なくなつた。俺は一時間の黙想をすら許されないのである。独逸民法精神論の解説を公刊した頃は、頭脳の明晰を以て天下に迎へられた俺が、此頃は全く疲れた。俺の官能は強烈の刺戟に生き、俺の肉体は楽欲《らくよく》にとろかされた。精神がぽうつとすることさへある。俺の魂はどこへか行つてしまつたのではあるまいか。こんなことを思つて、そのかくれ家《が》をさがさうとする、すぐ愛子の額付《ひたいつき》が眼底に浮ぶ。俺はそれを払ひのけることが出来なくなつてゐるのであつた。
 俺は先だつて愛子につれられて帝劇へ行つて見た。あの堅い建築物と、色彩の強い装飾の中では、女の縞《しま》お召《めし》の着物がちつとも見|映《ば》えがしない。愛子が「あすこは椅子ですから」つて洋装で行つたのには、俺は驚いた。あの女は既に舞台と自分との関係を考へて居たのであつた。或は無意識であつたかもしれないが、とにかくある調和を感得して居たのであつた。其日の見物中には五六人の芸者も見えて居たが、薄暗い座敷の中で、柔かい曲線を作ることにならされた身体はここへ来ては螢ほどの光も放たない。それに比べると、あのけばけばしいおつくりをして、男の様な足取であるきまはつて居た女優の方が、ずうと人目を惹く、幾層倍の刺戦を与へる。俺はつくづく思つた、女の風俗も一転化するんだと。愛子は既に一転化した女であるかもしれない。
 一転化した女を自分は好くのであらうか。俺の頭はこんな疑問にぶつつかると、全く度を失つてしまふ。落伍者だと云つて世人から冷罵を浴びせかけられて居る人があるが、俺もその落伍者になつて居るらしい。友人の浅田が狭い庭の中で、二千円もかけて温室をつくつた。その傍へ萩、桔梗、女郎花なんどを三間《さんげん》四方ほど植ゑこんで、まん中に水道をひいて細流を作つた。俺は温室の中を覗いてるよりも、僅四五時間で作りあげたと云ふ秋草の庭が気に入つた。俺は自分で洋服が嫌ひだ。それははきぬぎに手数がかかるからだ。俺は又女の洋装がきらひだ。之は日本の女がすらりとして居ないからだ。愛子は比較的に洋装が体につく。夜会へ出てもひけはとらない。けれども俺は本統は嫌《いや》だ。愛子は誰の為に洋装をするものか。みんな俺に見せたいばかりなのであ
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