畜生道
平出修

−−−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)空《むな》しく

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一々|誰何《すゐか》する

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]イオリンと
−−−−

 十二月も中ばすぎた頃であつた。俺がやつと寒い寝台から出たと云ふのに、もう電話で裁判所から催促だ。法廷が開けますから、すぐいらつして下さいと云ふのだ。俺が行かない間は、共同弁護人はみんな手を空《むな》しくして待つて居る。俺をさしおいて審理に取りかかるやうな事は決して無い。俺を先輩だとして敬意を表してくれる好意はいつでも感謝して居るんだが、それで又いつでも遅刻する。忙《いそが》しさうな真似をしてわざと遅れるのではないが、俺は朝が遅い。ただそれ丈である。其日も急《せ》き立てられて車を命じた。桜田門へ来ると夥《おびただ》しい巡査だ。赤い着ものの憲兵も見える。霜枯れのした柳の並木は剣光帽影《けんくわうばうえい》で取囲まれて居る。裁判所の門へはいると、一層警戒が厳しい。出入を一々|誰何《すゐか》する。俺は何の気なしに車を下りて式台の石段を上《のぼ》つた。警部がつかつかやつて来て、「誰方《どなた》です」と問うた。流石《さすが》に敬語を使つた。「高津だ。」俺はかう云ひすてて扉《ドア》の内へ歩を運んだ。俺の名前は警部の耳にも響いて居たと見え、何も云はないで俺の歩むが儘に任せてくれた。かう云ふときになると俺は常に損をする。俺は背《せい》が低い。顔は一見頑丈だが、下膨れの為に愛嬌はあつても、威厳がない。寒さうに肩をすぼめてあの宏壮な建物の入口の石段を踏んだとき、之が高津暢であるとは誰れも思ふまい。
「この人が高津か。」警部は俺の声名と風采とが余りに懸隔があると思つたらしかつた。
 大審院《だいしんゐん》の控所はなかなかの混雑である。中老、壮年、年少、各階級の弁護士が十七、八人、青木が所謂「神仏混同の法被《はつぴ》をつけて、馬の毛の冠《かんむり》をのつけて」入廷の支度をして居る。新聞記者らしい人や、刑事巡査らしいものもごたごた出入をして居る。田村が廷丁《ていてい》と何か云ひ合つてる。
「海城《かいじやう》さんが見えるまで待ち玉へ。」田村が甲高《かんだか》な声を尖《とが》らして居る。
「もう十時半でせう。昨日裁判長から九時にそろつて下さいと云はれたとき、海城さんは毎日八時半に弁護人は一同打揃つて居りますなどと、真面目に云つて入《い》らしつたぢやありませんか」と廷丁《ていてい》が理責《りぜめ》を云ふ。
「今朝用事が出来れば昨日《きのふ》の通りには行かんぢやないか。」
 田村はまじめに海城の来るのを待つてゐるんだと思ふと俺は可笑しかつた。海城のやつも俺流だ。あの先生はともすると俺よりもづぼらかもしれぬ。「八時半にはみんな揃つて居ます」などと云ひつぱなしにするあたりはあいつの一流だ。
 俺は給仕を呼んだ。「どうした。」と法廷の模様をきいた。あんまりに遅いので外の事件を先にして審理がひらけたと云ふことだ。それなら俺を急がすこともないではないかと給仕を叱つた。叱つた方が無理であるとはすぐ思ひついたが、取消をするのも面倒くさいからその儘にしておいた。
 幸徳《かうとく》某|外《ほか》二十幾名が不軌を計つたと伝へられ、やがてそれが検挙となつて裁判沙汰に行はれた。こんなにものものしい警戒も混雑も此裁判事件の公判が[#「公判が」は底本では「公判か」]開けて居るからである。田村は此事件の主任のやうなものであつた。国民は激昂《げきかう》して弁護人たる田村や金山にあてて、「逆徒の弁護をするなら首がないぞ」と云ふ様な投書をいくらもつきつけた。俺は新聞でその事を知つて居た。田村が俺と向ひ合つて腰をすゑて俺に一揖《いつしふ》したから、俺はからかつてやつた。
「おい、首があるかい。少し顔色が青いなあ。」すると田村が、
「さうです。首が二つ以上ある人間でなければ、こんな事件には関係出来ますまい。」と云つた。
 俺はぎよつとした。田村のやつどえらい皮肉を浴びせかけやがつた。ただこれ丈の問答では聞いて居た第三者には少しも分るまい。禅機を語つて居るやうでもあらう。けれども俺の胸には手ひどく響いた。
 事件の公判期日が極《きま》つた頃であつた。田村と榛沢《はんざは》とが俺のところへやつて来た。此両人は東京でも先づ信用名望のある弁護士だ。それが打ち揃つて来て、俺にも弁護人になつてくれいと云ふのであつた。俺が承知してくれれば、院長へ交渉して官選弁護の辞令を出させると云ふのであつた。つまり此事件は実に日本建国以来初めて起つた
次へ
全4ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
平出 修 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング