る。俺はそれが嫌なのだ。女は容色の衰へをかくす為に目新しい扮装《ふんさう》をさがして移つてあるく。俺は愛子がさう云ふ技巧に浮身をやつして居るのを感謝するのが当然であると思つても、俺はかうして羽がひじめにされて行くんだと云ふ考へが先に立つ。それでもよせと一言《ひとこと》云つたことはない。俺にはそれを云ふことが出来ないのだ。
此間も上野へつく汽車の時間を見計《みはか》らつて、愛子は俺を出迎に来た。俺は初めは愛子とは思はなかつた。車を下りてプラツトホオムのたたきを歩いて居ると、改札口に若い女が美しい洋装で立つて居る。別に一等室には乗合客もないのであるが、誰の出迎をして居るのであらうと、俺はそろそろ近よつた。するとそれが愛子であつた。新橋ならまだしも、上野では一寸珍らしい出迎へだ。改札口の内外《うちそと》に人だかりがしてどの目もどの目も愛子に注がれて居る。俺は心に怯れが出て来た。むづがゆい様な思ひもした。愛子は外に人が居るのか居ないのか、そんな頓着もないらしく、つとよつて来て俺に握手を求めた。俺は其手を払ふことが出来なかつた。俺は誰が見ても六十に近い半白《はんぱく》だ。愛子は精精で三十位にしか見えまい。俺は気はづかしくたまらなかつた。
見ると書生は誰も来て居ない。「どうしたんだ」ときくと、愛子は、
「私一人ぢやいけませんか。」
かう云つて嫣然《につ》とした。そして、
「自働車が来てゐます。」と云つて出口の方を目で指した。
俺は愛子と二人で自働車にのつた。車は滑《なめらか》に、音も立てず、道路の人を左右によけつつすべるやうに走る。愛子が身じろぐごとにさやさやと衣《きぬ》ずれがして、香料の薫りが快く俺の官能をそそる。俺はすつかりいい気もちになつてしまつた。
こんなにされてしまつて俺は今はただ肉体に生きてゐる丈だ。俺はもう畜生道に陥ちてしまつたのであらう。さうして俺は生活費を得んが為に、この疲れた身体を働かせて居るのにすぎない。大家とか先輩とか云ふことは、俺の様な落伍者を葬る誄詞《るゐし》なんだ。俺はそんなことはどうでもいい。俺は愛子に抱かれて死ぬんだ。死んだら愛子はどうなるであらう。そんな事はちつとも考へることなしに、俺は心安く死ぬんだ。
[#地から1字上げ](大正元・八・一四稿/「スバル」四巻九号大正元・九/『畜生道』所収)
底本:「定本 平出修集」春秋社
1965(昭和40)年6月15日発行
※底本は、著者によるルビをカタカナで、編者によるルビをひらがなで表示してありますが、このファイルでは、編者によるルビは略し、著者によるルビをひらがなに改めて入力しました。
※作品末の執筆時期、初出、初収録本などに関する情報は、底本では、「/」にあたる箇所で改行された3行を、丸括弧で挟んで組んであります。
入力:林 幸雄
校正:松永正敏
2003年5月6日作成
青空文庫作成ファイル:
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