ればならなかつた。十重二十重《とへはたへ》にも築き上げられた大鉄壁を目がけて鏃《やじり》のない矢をぶつつけるやうな、その矢が貫けないからと云つて気ばかりぢりぢりさせて居たことが、全く無意味に終つてしまつた。
僅に残つた親友の大川をはじめ二三の人々は、亨一の将来を気づかひ、あの儘にしておけば彼は屹度終りを全くすることが出来なくなると云つて、其前途を危《あやぶ》んだ。それで誠実と熱心とを以て亨一に生活の転換を説き、ある方法によつてある程度の自由が亨一に与へられるやうに心配もした。東京に居ちやいけないと、諸友は頻りに隠栖《いんせい》を勧めた。煩雑と抵抗の刺激から逃れて温泉地へでも行けと云つた。之等《これら》の黙止すべからざる温情が亨一の荒《すさ》んだ心に霑《うるお》ひを与へた。三月の初めに東京を逃れて此地に来た。山間の温泉場ではあるが、東京から名古屋へかけての浴客を吸集して、旅館の甍《いらか》は高く山腹に聳えて居る。清光園と云つて浴客の為に作られた丘上の遊園地の一隅に、小さな空家《あきや》があつて、亨一はその家を借りて移り住んだ。
五月になつた。太陽の熱が南の縁に白くさす日がつづいた。若
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