》の感じに満ちて居たのであつた。
その時の自分の態度が曖昧であつたのをすず子は賛同したんだと思つた。それも無理がない。実際に自分は暗に慫慂《しようよう》したやうな態度を示して居たからである。それから三阪に対しても、多田に対しても、同じ様な応答をして居つた。三人はいつの間にか共通の意志を作つたらしい。それも自分には分つて居つたが、自分は何とも云はなかつた。
すべて自分である。戦慄すべき惨禍の※[#「「饂」の「食へん」に代えて「酉」」、第3水準1−92−88]醸者《うんじやうしや》は自分である。自分は其責を負はなければならない。進んで身を渦中に投ずるか。退いて原因力を打ち断つてしまふか。自分はこの二つの何れかを択ばなければならない。
爪先上りの緩い傾斜を作つて山は南の方へ延びて居る。斜面には雑木一本生えてない。鋏をいれたかとも思はれる様な丈の揃つた青草の中の小途《こみち》を、亨一とすず子は上つて行く。途が頂上に達する処に一本の松が立つて居る。その木の下まで行けば、向うは眼開《がんかい》がひろくなつて、富士山がすぐ眼近に見える。村の人は富士見の松と云ひならはして居る。二人はそこまで行つて草を藉《し》いて腰を下した。五月の日盛りの空はぼうとして、起伏する駿州の丘陵が薄い霞の中から、初夏の姿をあらはして居る。風が温かく吹いて、二人の少し汗した肌を心持よくさました。
二人は暫く黙つて景色に見入つて居た。
「私、弥《いよいよ》決心しました。」女の方から話しかけた。
「ええつ。」と男は問返すやうな目付《めつき》をした。
「私、行つてきますわ、労役へ。」女はかう云つて男の手をとつた。そしてそれを自分の膝の上までもつてきて、指を一本づつ折るやうにして、まさぐつた。
「今決しなくともいい問題だ。」男はわざと空《そら》空しく云つた。
「とても罰金が出来さうにもありませんし、それに……。」
「金なら作る。屹度私が作る。」男は皆まで云はせずきつぱり断言した。
「それに私はいろいろ考へることがありますの。第一金銭問題で此上貴方を苦しめると云ふことが私には堪へられないんですもの。」
「そんなこと……。」男の云はうとするのを今度は女が遮つた。
「まあきいて下さい。私度度貴方に叱られましたわねえ。落着かないつて。私もどうにかして平和が得たいと思つて、いろいろ反省もしたんですけど、何だか世間が私をぢつとさせて置かないやうで、どう云つたらいいでせう。私の身体ぢゆうに油を注いで、それに火をつけて、その火を風で煽る如《やう》に、私は苦しくつて苦しくつて、騒がずに居られないやうな、折折気が狂ふのかと思ふやうな心持がして来ますの。私ねえ、貴方のお傍に居ないのであつたなら、疾うにどうにかなつて居ましたのでせうよ。」
「貴方はまた亢奮しましたね。いけません。いけません。」男は女から膝から自分の手をもぎとる様にして引いた。
「いいえ。大丈夫です。今日は私はしつかりして居ます。私が労役に行くと云ふことも、畢竟《ひつきよう》は貴方の御意思通りに従はうと云ふにすぎません。なぜとおつしやるんですか。私は労役に服してそこに平和を発見して来ようと思つてるんですもの。あすこは別世界でせう。全く世間とは没交渉でせう。今日のことは今日で、明日のことは明日と云つたやうに、体だけ動かして居れば、時間が過ぎて行く処です。自由、自由つてどんなに絶叫して居ても、到底与へられない自由ですもの、いつそ極端な不自由の裡《うち》に身を置いてしまへば、却つて自由が得られるかもしれません。」
亨一は此話の間に屡々|喙《くちばし》を※[#「「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている」、第4水準2−13−28]《さしは》さまうとしたがやつと女の詞の句切れを見出した。
「馬鹿な、空想にも程がある。貴方だつてあの中の空気を吸つたことがある人ぢやないか。あの小さい小ぜりあひ、いがみあひ、絶望が生んだ蛮性。あれを貴方はどう解釈してるのです。」
「私にはまだ大きな理由があります。蕪木のことがその一つ。」女は男の体にひたと身をよせた。
「蕪木が私達を呪つて居ます。私が貴方の傍に居ることは、貴方の身体にも危険です。私があちらへ行つたら、ちつとは蕪木の憤激がやはらぐでせう。それから私は貴方の教訓に従ひます為に、三阪さん、多田さんとも文通を絶つ必要があります。官憲が丁度よく私と外界とを遮断してくれますから、私に対するあらゆる讒謗《ざんばう》も、呪咀もなくなつてしまひませう。その代り私が帰つて来ましたら……。」
女は今日に限つて涙が出ない。之れ丈の事を云ひ尽すのに、何にも泣かずに云つてしまつたことが不思議のやうに思はれた。こんなにものを云つてる人間が自分の外にあつて、自分はただその仮色《こわいろ》をつかつてるにすぎないのではあるま
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