葉はいい薫の風を生んだ。畑には麦の緑と菜の花の黄色が敷かれた。清澄な山気を吸ひ、溢るる浴泉をあびて、筆硯を新にした亨一はすつかり落着いてしまつた。平安閑適の生活が形成されさうにも思はれて来た。土色の頬には光沢が出て来て、かすれた声にも凛とした響が加はつて来た。かうして一年も二年もくらして居られたら、そしてすず子がもすこし自分の今の気分に調子を合せてくれたら、本当に読書人となつてしまふことが出来るかもしれない。亨一はかう思ふごとにすず子に教訓した。もつと落着いてくれませんかと。けれどもすず子のひねくれた感情は容易に順正に復さなかつた。此隠れ家にあてて多くの同志からの通信がくる。すず子はその名宛が誰れであらうともみんな自ら開封した。亨一には自分で読んで聞かせる位にして居た。返事は大抵自分で書く。亨一は著述に忙しいからでもあるが、すず子はまた成るべく社会の人の音信が聞きたかつたのである。中に二三の人からすず子にあてた極めて簡単な手紙が、すず子の心熱を煽《あふ》るらしかつた。時にはそれを亨一にも秘《かく》すことすらあつた。重大な予報が何であるか、亨一には略推測がついた。
 女の頬には段段やせが見えて来た。朝からぢつと欝《ふさ》ぎ込んで、半日位は口をきかない様なこともある。さう云ふ時に限つて、女の様子は一面にそはそはして居るのであつた。夜なども胸苦しさうに溜息をしたり、寝返りをしたりして、容易に寝付かれないらしい。こんな事が幾晩も幾晩もつづくことがあつた。ある晩亨一は昼の労作のつかれで宵の中《うち》からぐつすり寝入つた。そして夜中に目をさました。もう全くの深更であつた。そつと頭を上げて女の容子をうかがつた。すやすやと女の微かな寝息がする。
「今夜はよくねむつてゐる。」亨一はかう思つて枕許のマツチをすつて女の傍へ火をかざした。女の寝姿が明るく男の目にうつつた。きつと結んだ口元には不穏の表情がある。泣き乍ら寝入つたのではあるまいかとも思はれる顔付である。火がきえると室は再びもとの暗に戻つたが、今見た女の寝顔がはつきりういて見える。亨一は起き上つてランプに火をつけた。女の頭の傍に拡げたままの手帳が一冊はふられてあるのが目に入つた。亨一は手をのばしてそれを取り上げた。
「犠牲は最高の道徳でない。けれども犠牲は最美の行為である。」女は書き出しにかう書いてゐる。
「死は人間の解体である。破壊は社会の解体である。死そのものは誰か罪悪であると云はうぞ。それと同じく破壊そのものは亦決して罪悪ではない。死は自然に来たる故に人は免れ難いものだと云ふ。然らば破壊が自然に来たときは、やはり免れ難い運命だと云ふべきであらう。破壊が自然に来る。自然に来る。破壊を企てる人間の行為は即ち自然の力である。我は自然の力の一部ではあるまいか。」こんなことが、極めて断片的に書きつづられてある。殊に最後の一節は、亨一のと胸をついた。
「私共の赤ん坊はよくねかせてある。誰も知らない、日もささない風もあたらない、あの鴉共の目もとどかない処に、泣いたら泣き声が大きかつたさうだ。」
 亨一は明りを消して床の上に横たはつた。女はまだあの戦慄すべきことを計画してゐるんだ。女に心の平和を与へて、ふつくりした情緒に生きることを訓練しようと思つて、この三月《みつき》が間いろいろ苦心をして来たが、それが何程の効果もないらしい。女はやはり恐怖、自棄、反抗の気分から脱け出すことが出来ないのだ。かう思つて来ると亨一は今更自分の過失の罪悪を考へずに居られなかつた。
 自分はかう云ふ暴逆的×××主義を宣伝する積《つもり》ではないのであつた。自分が云つた改革は、訓練と教育との力を待つて、自然に起る変化の道程を示すと云ふことであつた。自分が呪つた権力は現在の政治が有《も》つてゐるそれでは勿論ない。理想の上の妨害物たる権力そのものを指すのであつた。自由の絶対性を考ふるとき、一切の拘束力を無視しなければならないと云ふときの意味であつた。それを多くの者は混同させてしまつた。理想を云はずに現実を見た。今の政治が自由を奪ふと見た。同志と称する者がかう云ふ間違つた見方をした丈であるならまだよかつたが、政治家の多数が亦観察を誤つた。そして謬見《びうけん》を抱いて社会の継子《ままこ》となつた人人に対して、謬見を抱いた政治が施された。脅迫観念は刻刻時時に継子共の上を襲つた。その襲はれた人の中にすず子があつた。自分自身もをつた。不知不識《しらずしらず》自分も矯激《けうげき》な言動をするやうになつた。ものは勢《いきほひ》である。「かうしては居られない。」「進むべき道は死を賭した一事である。」こんな雰囲気が、すず子を深くつつんだ。ある夜すず子が自分にあることを囁いた。自分はその当時それを諫止することをし得ない程、自分自らが剋殺《こくさつ
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