いかとさへ思はれた。
 ふとこんなことを考へはじめると、今度は本当に悲しくなつて涙がおのづと流れ出た。
「貴方のお話は分りました。」男はかう云つて其次の詞を択ぶやうな様子をしてしばらく眼をとぢて居たが、
「貴方は貴方の健康と云ふものを考へて見ませんでしたか。」と云つた。
「いいえ。」女ははつきり答へた。「私の健康。そんなものが何んでせう。私の肋膜は毎日うづきます。いつそ腐つてどろどろになつたら、それでいいでせう。それで。」
「いけない、貴方は又亢奮して居ます。そんな乱暴な。」
「乱暴でも生命は自ら壊《やぶ》りはしません。」
「さうでない。貴方は自分で死場所《しにばしよ》をさがして居るのです。」
「だつて人間には未来がわからない筈ですもの。」
「けれど貴方にはその未来がわかつて居るんです。死ぬる時、場所、方法、それ等はみんな貴方にわかつて居る筈です。」男は女の為す処を見守つた。彼は決して自分の計画を棄てるのではない。彼が労役に行くと云ふ決心も、我を欺き世間を欺く一つの手段にさへ過ぎないと思はれた。
「私は貴方の未来が不明になつてしまふことを希望します。私が貴方を愛する力の及ぶ限りはこの希望の貫徹に向つて進まねばならない。」
 女は涙のない以前に戻つた。自分が此決心を男に打明けるに至つた迄の径路を思返して見た。身にあまる大難問が三つも四つも重《かさ》なり合つて、女の思考情願、判断を混乱させてしまつたので、たどるべき径路の系統の発見に長い間苦しんだ。どうしても棄てることの出来ないのは三阪等と企てたある計画であつた。之は決して棄てないから断案を一番遠くのものにつけてしまつて、それから段段近い方の問題の整理を考へた。罰金のこと蕪木のこと、それは労役に服すると云ふ方法で略解決がつくと思はれたから、最初に片付けてしまつた。自分と亨一との問題、之が彼には最も至難のものであつた。男が目立つて血色がよくなつて、段段晴晴した気分に向つてゆくのを見ると、男の愛する「生」の歓喜の前に自分の計画の全部を捧げてしまひたいと云ふ心が萌《きざ》すのであつた。そればかりではない。彼は真に男を愛して居た。普通の場合で普通の出来事が原因をして居るものならば彼はその原因を破つて破つて、どうしても男の傍に居るやうな手段に出《い》づるに違ひない。ただ彼の計画は普通の場合でない、普通の事件でない。彼は生命を犠牲にしても辞さない覚悟である。恋愛――勿論それを犠牲とすることに躊躇すべき筈ではないのであつた。それでも女は恋愛を棄てるに忍び得なかつた。両立すべからざる二つの情願を二つとも成就さす方法は到底発見し得られさうにもなかつた。
 もし、もし女が大胆な計画に、も一層の大胆さを加へて、男をもその計画の一人に引き込んで、一緒に実行して一緒に死んでしまふ。と云ふ決心が出来れば、或は二つの情願が、死の刹那に融合してしまふ様にもならうか、之とて今の亨一に強《しひ》ることが出来なかつた。結局未解決にして置いて、先づ労役のこと丈をやつてしまはうと思つた。労役中で幾分か恋愛の情緒がゆるむかもしれない。又例の計画の狂熱がさめるかもしれない。なるべくは帰つて来て男の傍で、安易な生活の出来る女になつて見たいと思はぬでもなかつた。ただかう考へてくるときにいつも彼の目前に立ちはだかる一つの恐ろしい事実がある。それは病気の問題だ。彼の病はもう左肺を冒して居ると云ふことを彼は自覚して居つた。病気で死ぬ位なら、いつそ××の為に死なう。こんな風に端《はし》のない絲をたぐるやうに考へがぐるぐるとめぐつてあるくのであつた。
 今日男に打ち明けたときでも、無論最後の解決がついてるのではなかつたが、男はもう彼にその覚悟があるのだと思つてしまつた。そして其計画を止《や》めてしまへと切諫《せつかん》をした。女は、「それはまだ考へなけりやならないことです。」と云はうとしたが、それが女の自負心を傷けるやうにも思はれた。あの事を止めてしまへば自分は「ただの女」となつてしまふ。一旦は喜んで貰へるかもしれないが直に又侮蔑がくるであらう。
 たうとう女は云つた。
「貴方は私をどうなさらうと云ふお積り。」女の詞の調子はやや荒々しかつた。
 男は女が何か思違《おもひちが》つて居るのであらうかと思つて、殊更に落着いて、
「どうしようとも思ひません。ただ貴方に平和が与へたいばかりです。」と云つた。
「そんなもの私には不必要です。私は戦士です。革命家です。闘ひます。あくまでも。」かう云つた女の唇は微にふるへて居た。
「貴方は私の云ふことを誤解して居ます。貴方が労役に行く。それもいいでせう。貴方がそれほどに仰有るなら、私も強て反対はしません。私はただ貴方の病気を心配するんです。毎晩の様に不眠症にかかつて、ねつけばすぐ盗汗《ねあせ》がすると云ふぢ
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