分の懐中に少許りの小遣銭が残つて居るのを思出しました。へい一円六十五銭程でした。どうせ死ぬなら、之で甘いものを食つてからにしよう……」
 たどたどしいものゝ云方で彼は喋続けて来た。
其話の道行が風変りなので、法官も弁護人も共同被告も、ゆるやかな心持ちになつて之を聞いて居た。[#改行天付きはママ]人が今死ぬる覚悟をしたと云ふ悲惨な物語を聞いてるとは思はれない程、それが可笑味を帯びたものであつた。しかし本人自らはどこまでも真面目である。
「それから警官に願つて、洋食を買ひました。米原であつたと思ひます。私は洋食をすつかり食べてしまひましたが、どうせ死ぬなら急《せ》くことはないと思ひました。」
 誰だかこつそり笑声をもらしたものがあつた。
「大阪ではあんなに厳しかつたが、東京へ行つたら、ちつたあ模様が違ふかもしれない。その様子によつて覚悟しても遅くはない。私はかう思ひまして死ぬのは見合せました。
 東京へ来て見ると、やつぱり厳しい。むしろ大阪よりも一層厳重なお調です。もうだめだ、とても助からない。死ぬのはこゝだ……。へい、全くです。私は……」
 彼は法官席を見上げた。そして裁判長がそれ程感動したらしくも見えない顔付であるのを見て取つて、彼は躍起となつた。
「決して嘘ぢやありません。私は本統に死ぬ積りでした。兵児帯で首を……。首を……」
 彼はどうにかして自己の陳述に確実性を与へたいと思つた。後の方を振り返へると、看守長の宮部と云ふ人が、被告席の一番後の片隅に椅子に凭つてゐるのを見付けた。彼はその看守長を指さし乍ら、
「あの、あの方でした。看守長さん……、宮部さんでした。ねえ。」
 彼は看守長を証人にしようと思つた。宮部さんは仕方なしに首を上げて被告の後向になつた顔と自分の顔とを見合せて、「お前の云ふ通りだ」といふ暗示をした。
「貴方がとめて下さいました。私が首を……。首をやつてしまはうと云ふとき……。実に其時は危機一発でしたねえ。」
 先程から忍んで居た笑が一同の頬に上つた。彼の調子外れの声が、「実に危機一発でしたねえ」と云つたとき、誰も誰も其容貌の厳格さを保つて居ることが出来なかつた。さすがの裁判長の目許にも愛嬌が見えた。
「これはどう云ふ風に考ふべきであらうか。」若い弁護人はかう思つて黙想した。
 彼は最も多く死を怖れる。しかし彼の恐怖は死其ものに対してゞはない。死に至るまで持続せられて行く生に対する脅しを恐れたのである。殺されると云ふそのことが彼には堪へ難い惨苦を想はせたのである。殺されることなら一層自ら死なう。それが無造作な彼の覚悟であつた。その覚悟が出来たのちも彼は尚口舌の慾を貪ることを忘れはしなかつたのである。之を以て彼は生を愛したものだとも云得るかもしれないが、むしろ之は、彼が死そのものを真に求めて居るのでもなく、又死そのものを真に恐れて居るのでもないと云ふ方に解したらよからう。それ故彼は洋食を食つて十分食慾を充たし得たとき死と云ふことから全く離れてしまつたではないか。東京の模様によつては必ずしも死なずにすむかもしれないと考へた。即ち彼の生に対する脅かしさへなくなれば、彼は死ぬほどのことはないとも思つた。生の執着からでもなく、死の恐怖からでもなく、只目前の苦痛が彼を、いろ/\に煩悶させたに過ぎない。死んでしまつた方が楽でありさうだから死ぬ。もしそれよりも楽なことがあればその方法を採らう。何れにしろ今の苦艱から免れたい。彼は頗る単純に考へたにとゞまる。彼が二度目の自殺を企てたとき看守長の為にとめられた。此障礙は寔に偶然のことである、彼はこの偶然の障礙を呪はうともせず、又此偶然さへなくば自分はもう死んで居たのであると云ふ苦悶をも考へずに、彼は、「危機一発」であつたと只思つたに過ぎない。彼から見れば、死も生も同一の事の様にも取扱はれてるらしい。彼は第三者の地位に立ちて自己の自殺を客観して語ることが出来る。何もかもすつかり超越してゐるとも見える。「死と生とは天才にとつては同じことだ」と云つた杜翁《とをう》の言を以てすれば、彼も天才であると云はなければならない。若い弁護人は今更らしい真理の発見者であるかの如く心に微笑した。
     *      *      *
 時は明治ヽヽ年ヽ月ヽヽ日、一代の耳目を聳動せしめた。某犯罪事件の判決の言渡のある日である。開廷数時間前既に傍聴席は満員となつた。傍聴人は何れも血気盛んな、見るから頑丈な、腕つぷしの強さうな人のみであつた。何しろ厳冬の払暁に寝床を刎起きて、高台から吹きなぐる日比谷ヶ原の凍つた風に吹き曝され、二時間も三時間も立明し、狭い鉄門の口から押合ひへし合つて、やつと入廷が出来るといふ騒ぎだから並一通りの体格の人では、とても傍聴の目的を達することが出来ないのである。其多くは学生の装
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