ヨリ舳二反目ヲ約二尺スリキラル。」――「履歴書」にはそんなふうに書いてある。破損箇所を知ると、船頭は漁夫を指揮し、マニラトワイン、南京麻等の新網を入れ替えてゆく。
 一方にはまた鰊を陸上げする時に使う畚を作ったり古いのを修理したりしているものがある。ゴロを作っているものがある。生鰊を箱づめにしておくり出す、その箱を作っているものもある。――他の何人かは廊下に水を流し、清掃しはじめた。廊下とは漁舎のことで、鰊を貯蔵するところであり、また鰊をツブす作業場でもある。それがすむと干場の手入れだ。ここはツブした鰊を目刺しにして乾燥するところだ。
 翌日、船頭、下船頭は慣れた漁夫十人ほどと二艘の磯舟に分乗して沖合はるかに漕ぎ出して行った。舟には覗眼鏡、探り絲、八尺、それから筵を何枚も縫い合し、それに錘をつけたものや、樹木の枝を数十本束ねて太い縄でしばり上げそれに十貫にあまる石をおもりとして結びつけたものを数箇つみこんだ。
 沖合数百間、十四五尋のところへ来ると、舟はそこに碇泊した。折よく凪で海水は澄み切っている。漁夫たちは覗き目鏡で、海底を覗きこんだ。このあたり一帯の海は、鰊が卵を産みつけに群来《くき》るところだ。すじめ、ざらめ、うがのもく等の馬尾藻科の海草が、覗き眼鏡の底に鬱蒼として林のごとく繁茂して、大きな波のうねりのごとにゆらゆらとゆらめいてうつるのであった。他の一艘に分乗した漁夫たちは、探り絲をおろして海底を曳きまわしはじめた。彼らはそうやって海底の岩礁の形や、岩石の表面に牡蠣や、日和貝等の附着した箇所を知るのであった。鰊建網は長さ四十間にわたって海底に敷設する箱形の網である。そしてその箱の底をなす敷網を起して嚢網中に入り込んでくる鰊を捕獲する装置である。だからもしも網を敷設する海底が、岩礁や、貝や、その他の障害物によって凹凸がはげしければ、波のまにまにゆれうごく敷網はその障害物にふれてたちまち傷つき破れざるをえないのだ。――検査を終えた漁夫たちは、やがてそれぞれの箇所ヘ、筵[#底本ではここのみ「莚」。他は「筵」]を縫合したものや、樹の枝を束ねて大きな束にしたものを沈めるのであった。それらは何れも障害物の頂上をおおい、又は網底を持ちあげて、網が直接障害物にふれることを防ぐに役立つものである。
 一切の準備を終り、やがて建込みの日が来た。
 三月の下旬のある日、えらばれた吉日である。この日は旦那もわざわざ浜まで来て、仕込みを建てに行く漁夫たちの舟を見送った。網をつみこんだ親舟、それをとりまく小舟は威勢のいいかけ声と共にたちまち岸をはなれて行く。かねてから点検しておいた海上数百間の許可距離の位置に建網を投網するのだ。
 無事に投網を終え、――その夜は安着祝のときと同様、酒のふるまいがあった。
 仕込みを終えた翌日からは建込みの監視がはじまった。小舟にのった漁夫たちは、日のうちは投網した箇所をぐるぐるまわって、浮游した障害物が網にかかるのを注意する。鰊がくきるのは黄昏《たそがれ》から夜にかけてである。船頭と漁夫一同は、ようやく日も永くなって来た午後の四時前後には早くも夕飯を終えて磯舟に分乗し沖合に向って漕ぎいだす。建込みの場所にはかねて親舟が繋留してある。一同はその親舟にのりうつり、交代で小舟にのって、鰊の来游を監視するのであった。
 そうこうしているうちに、「初鰊」の報道がつたえられる。この町の帝国水産会の支部は、事務所の前の掲示板に墨くろぐろと初鰊の速報を書いてはり出した。町には見る見る活気がみなぎってくる。大漁を祈願する鐘や太鼓の音がひっきりなしにきこえる。鰊場かせぎの出面《でめん》たちは近処の農村から続々と入りこんでくる。――どこへ行っても話は今年の鰊漁の予想でもちきりだ。漁夫たちは期せずして勇み立った。
 初鰊の報道があってから一週間目に、大丸の建網にも最初の群来《くき》を見た。
 凪のいい日だった。日が山のかげに沈むと、とおく沖の彼方から夕闇がおし迫って、波のいろがみるみる変ってきた。漁撈長である船頭は、舟の上から食い入るようにいろの変ってきた海面を凝視している。目で見るというよりもからだじゅうの全神経で感じるのだ。
 見よ、今一瞬のうちに闇のなかにつつまれようとしている海面がそのとき異様なふくらみを見せてもりあがり、もりあがって来たではないか。――ひたひたひた、と鰊の大群はいま網のうえに乗ってきたのだ。
 一瞬、舟の上に仁王立ちになった[#「仁王立ちになった」は底本では「仁王立ち」と誤植]船頭は、儼然として言いはなった。
「起こせ!」
 起こせ、とは網を起こせということだ。声と共に固唾をのんで待ちかまえていた漁夫の手によって、網口がただちにぐいぐいと引きあげられる。嚢網の奥部に向ってそれは繰越し繰越したぐりよせられて行く。
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