いたのですが」
声の音いろというものが、ある程度までその人間の人柄を示すことが事実であるとすれは、その男が善良な性質の持主であるらしいことがすぐに知れるのであった。こんな世界では恐ろしく丁寧なその言葉|遣《づか》いもさしてわざとらしくは聞えず、自然であった。
「いいえ、迷惑なことなんかちっともありませんよ。僕だって退屈で弱っているんだから」太田は相手の心に気易《きやす》さを与えるために出来るだけ気さくな調子で答えたのである。
「始めてここへいらした時にはさぞびっくりなすったでしょうね。……あなたは共産党の方でしょう」
「どうしてそれを知っているんです」
「そりやわかります。赤い着物を着ていてもやっぱりわかるものです。わたしのここへ入った当座はちょうどあなた方の事件でやかましい時であったし……、それに肺病の人はみんな向うの一舎にはいる規則です。肺病でこっちの二舎に入るのは思想犯で、みんなと接近させないためですよ。戒護のだらしなさは、上の役人自身認めているんですからね。……あなたの今いる監房には、二年ほど前まで例のギロチン団の小林がいたんですよ」
その名は太田も知っていた。それを聞いて房内にある二、三の、ぼろぼろになった書物の裏表紙などに折れ釘《くぎ》の先か何かで革命歌の一とくさりなどが書きつけてある謎《なぞ》が解けたのである。
「へえ、小林がいたんですかね、ここに、それであの男はどうしました」
「死にましたよ。お気を悪くなすっては困りますが、あなたの今いるその監房でです。引取人がなかったものですからね。薬瓶《くすりびん》で寝台のふちを叩きながら革命歌かなんか歌っているうちに死んじゃったのですが」
いかにもアナーキストらしいその最後にちょっと暗い心を誘われるのであった。そして今、この男に向って病気のことについて尋ねたりするのは、痛い疵《きず》をえぐるようなもので残酷な気もするが、一方自分という話相手を得てしみじみとした述懐の機会を持ったならば、おのずから感傷の涙にぬれて、彼の心も幾分か慰められることもあろうか、などと考えられ、それとなく太田は聞いてみたのである。
「それで、あなたはいつからここへ来ているんです。いつごろから悪いんですか」
「わたしはこの病舎に来てからでももう三年になります。二区の三工場、指物《さしもの》の工場です、あそこで働いていたんですが急に病気が出ましてね。手先や足先が痺《しび》れて感覚がなくなって来たことに自分で気づいたころから、病気はどんどん進んで来ましたよ。もっとも自覚がないだけでよほど前から少しずつ悪くはなっていたんでしょうが。人にいわれて気がついて見ると、なるほど親指のつけ根のところの肉、――手の甲の方のです、その肉なんかずっと瘠せていますしね。第一子供の時の写真から見ると、二十ごろの写真はまるっきり人相が変っています。子供の時は、ほんとうにかわいい顔でしたが」
「誤診ということもあるでしょうが、医者は詳しく調べたんですか」
「ええ、手足が痺れるぐらいのうちは、私もまだ誤診であってくれればいいとそればかり願っていましたが、それから顔が急に腫れはじめた時にもまだ望みは失いませんでしたが……しかし、今となってはもう駄目《だめ》です、今は……、太田さん、あなたも御覧になったでしょう、え、御覧になったでしょうね、そしてさぞ驚かれたことでしょう、眼が……、眼がもうひっくりかえって来たのです。赤眼になって来たのです。ちょうど子供が赤んべえをしている時のような眼です。それからは私ももう諦めています。こわい病気ですね、こいつは。何しろ身体が生きながら腐って行くんですからね。どうもこいつには二通りあるようです。あの四人組の一人のおとっつぁん、あの人のように肉がこけて乾《ひ》からびて行くのと、それはまだいいが、ほんとに文字どおり腐って行く奴とです。そしてどうもわたしのはそれらしいのです。それでいて身体には別になに一つわるいところはないのです。胃などはかえって丈夫になって、人一倍よけいに食うし……、餓鬼です、全くの餓鬼です。業病ですね。何という因果なこったか……」
急迫した調子で言って来たかと思うと、バッタリと言葉がとだえた。どうやら泣いているらしい。いい加減な慰めの言葉などは軽薄でかけられもせず、いいようのない心の惑乱を感じて太田はそこに立ちつくしていた。ちょうどその時靴音がきこえ、その男の監房の前に来て立ちどまり、戸を開《あ》けて、面会だ、と告げたのである。
男は出て行った。どこで面会をするのであろうか。気をつけて見ると、この病舎には別に面会所とてないのである。庭の片隅のなるべく人目にかからない所ですますらしいのである。面会に来たのは杖《つえ》をつき、腰の半ば曲った老婆であった。黄色い日の弱々しく流れた庭の一隅に、影法師をおとして二人は向い合って立っている。老婆はハンケチで眼をおさえながら何かくどくどとくりかえしているようだ。やがてものの十五分も経つと、立会いの看守は時計を出して見、二人の間をへだて、老婆を連れて向うへ立ち去って行った。男は立って、壁のかげに隠れるその後ろ姿を見送っていたが、やがて担当にうながされて帰って来た。
「太田さん、太田さん」監房へ入るとすぐに男はおろおろ声でいうのであった。「ばばアはね、うちのばばアはたとえからだが腐っても死なないで出て来いというんです。それまではばばアも生きている、死ぬ時には一しょに死ぬから短気な真似《まね》はするなって、くり返しくり返しばばアはいうんです……」
それから今度は声を放って彼は泣き出したのである。――とぎれとぎれの話の間に、太田は男の名を村井源吉といい、犯罪は殺人未遂らしく、五年の刑期だということだけを知ることができた。あなたの事件は何です、と遠慮がちに聞いてみると、「つまらない女のことでしてね、つい刃傷沙汰《にんじょうざた》になってしまったのです」そういったままぷっつりと口をつぐんで、自分の過去の経歴と事件の内容については何事も語らなかった。
「ねえ、太田さん、わたしは諦めようったって諦められないんだ。わたしはまだ二十五になったばかりです。そして社会では今まで何一つ面白い目は見ていないんです。今度出たら、今度シャバに出たらと、そればっかり考えていたら、そのとたんにこんな業病にかかってしまって……。私はばばアのいうとおり、なんとかして命だけは持って出て、出たら三日でも四日でもいい、思いっきりしたい放題をやって、無茶苦茶をやって、それがすんだら街《まち》のまん中で電車にでもからだをブッつけて死んでやるつもりです。嘘じゃありません、私はほんとうにそれをやりますよ」
全く心からそう思いつめているのであろう、涙でうるんだ声で話すその言葉には、じかに聞き手の胸に迫ってくるものがあって、太田は心の寒くなるのを感じ、声もなくいつまでも戸の前に立っていた。
4
冬がすぎ、その年も明けて春となり、いつかまた夏が巡って来た。
肺病患者の病室では病人がバタバタと倒れて行った。今まで運動にも出ていたものがバッタリと出なくなり、ずっと寝込んでしまうようになると、その監房には看病夫が割箸に水飴《みずあめ》をまきつけたのを持って入る姿が見られた。「ああ、飴をなめるようじゃもう長くないな」ほかの病人たちはそれを見ながらひそひそと話し合うのだ。熱気に室内がむれて息もたえだえに思われる土用の夜更《よふ》けなどに、けたたましく人を呼ぶ声がきこえ、その声に起き上って窓から見ると、白衣の人が長い廊下を急ぎ足に歩いて行くのが見える。そのような暁方には必らず死人があった。重病人が二人ある時には、一方が死ねば間もなく他の一方も死ぬのがつねであった。牢死ということは外への聞えもあまりよくはない、それで役所では病人の引取人に危篤の電報を打つのであったが、迎いに来るものは十人のうちに一人もなかった。たとえ引取りに来るものがあったとしても、大抵は途中の自動車の中で命をおとすのである。――牢死人の死体は荷物のように扱われ、鼻や、口や、肛門《こうもん》やには綿がつめられ、箱に入れられて町の病院に運ばれ、そこで解剖されるのである。
暑気に中《あ》てられた肺病患者が一様に食欲を失ってくると、庭の片隅のゴミ箱には残飯が山のように溜り、それがまたすぐに腐って堪えがたい悪臭を放った。ちょっと側を通っても蝿《はえ》の大群が物すごい音を立てて飛び立った。「肺病のたれた糞《くそ》や食い残しじゃ肥しにもなりゃしねえ」雑役夫がブツブツいいながらその後始末をするのだ。その残飯の山をまた、かの雑居房の癩病人たちが横目で見て、舌なめずりしながら言うのである。「へへッ、肺病の罰《ばち》あたりめが、結構ないただきものを残して捨ててけつかる。十等めし一本を食い余すなんて、なんという甲斐性《かいしょう》なしだ!」それから彼らは、飯の配分時間になると、きまって運搬夫をつかまえて、肺病はあんなに飯を残すんだから、その飯を少し削ってこっちへ廻してくれ、と執拗に交渉するのであった。時たま肺病のなかに一人二人、昼めしなど欲しくないというものが出来、さすがに可哀《かわい》そうに思ってそれを彼らの方へ廻してやると、満面に諂《へつら》い笑いを浮べて引ったくるようにして取り合い、そういう時には何ほど嬉《うれ》しいのであろうか、病舎には食事時間の制限がないのをいいことにして、ものの一時間以上もかかってその飯を惜しみ借しみ食うのである。ひとしきり四人の間にその分配について争いが続いたのち、静かになった監房の窓ごしに、ぺちゃぺちゃという彼ら癩病人たちの舌なめずりの音を聞く時には、そぞろに寒け立つ思いがするのであった。――彼らは少しも変らないように見えたが、しかし仔細に見ると、やはり冬から春、春から夏にかけて、わずかながら目に見えるほどの変化はその外貌《がいぼう》に現われているのである。夏中は窓を開け放していても、この病気特有の一種の動物的悪臭が房内にこもり、それは外から来るものには堪えがたく思われるほどのもので、担当の老看守すら扉をあけることを嫌《きら》って運動にも出さずに放っておくことが多かった。そうすると彼らは不平のあまり足を踏みならし、一種の奇声を発してわめき立てるのであった。
5
夜なかに太田は眼をさました。
もう何時だろう、少しは眠ったようだが、と思いながら頭の上に垂《た》れている電燈を見ると、この物静かな夜の監房の中にあって、ほんの心持だけではあるがそれが揺れているようにおもわれる。じっと見ると、夏の夜の驚くほどに大きな白い蛾《が》が電燈の紐《ひも》にへばりついているのだ。何とはなしに無気味さを覚えて寝返りを打つとたんに、ああ、またあれ[#「あれ」に傍点]が来る、という予感に襲われて太田はすっかり青ざめ、恐怖のために四肢《しし》がわなわなとふるえてくるのであった。彼は半身を起してじっとうずくまったまま心を鎮《しず》めて動かずにいた。するとはたしてあれ[#「あれ」に傍点]が来た。どっどっどっと遠いところからつなみでも押しよせて来るような音が身体の奥にきこえ、それがだんだん近く大きくなり、やがて心臓が破れんばかりの乱調子で狂いはじめるのだ。身体じゅうの脈管がそれに応じて一時に鬨《とき》の声をあげはじめ、血が逆流して頭のなかをぐるぐるかけ巡るのがきこえてくる。歯を食いしばってじっと堪えているうちに眼の前がぼ―っと暗くなり、意識が次第に痺れて行くのが自分にもわかるのである。――しばらくしてほっと眼の覚《さ》めるような心持で我に帰った時には、激しい心臓の狂い方はよほど治まっていたが、平静になって行くにつれて、今度はなんともいえない寂しさと漠然とした不安と、このまま気が狂うのではあるまいかという強迫観念におそわれ、太田は一刻もじっとしてはおれず大声に叫び出したいほどの気持になって一気に寝台をすべり下り、荒々しく監房のなかを歩きはじめるのであった。手と足は元気に打ちふりつつ、しかも泣き出しそうな顔をしてうつろな
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