らく白っぽく乾《かわ》いていたことであろう。静かに立ち上ると報知機をおとし、それからぐったりと彼は仰向けに寝ころんだ。
 靴音がきこえ、やがて彼の監房の前で立ち止まり、落ちていた報知器をあげる音がきこえ、次に二つの眼が小さな覗《のぞ》き窓の向うに光った。
「何だ?」
 太田は答えないで寝たままであった。
「おい、何の用だ?」光線の関係で内部がよくは見えなかったのであろう、コトコトとノックする音が聞えたが、やがて焦立《いらだ》たしげにののしる声がきこえ、次に鍵《かぎ》がガチャリと鳴り、戸が開いた。
「何だ! 寝そべっている奴《やつ》があるか、どうしたんだ?」
 太田がだまって枕《まくら》もとの洗面器を指さすと、彼は愕然《がくぜん》とした面持でじっとそれに見入っていたが、やがてあわててポケットから半巾《ハンケチ》を出して口をおおい、無言のまま戸を閉じ急ぎ足に立ち去った。
 やがて医者が来て簡単な診察をすまし、歩けるか、と問うのであった。太田がうなずいて見せると彼は先に立って歩き出した。監房を出る時ふと眼をやると、洗面器の血潮はすでに夏の日の白い光線のなかに黒々と固まりかけていて、古血の臭いが鼻先に感ぜられた。
 日のなかに出ると眼がくらくらとして倒れそうであった。赤土は熱気に燃えてその熱はうすい草履をとおしてじかに足に来た。病舎までは長い道のりであった。どれもこれも同じようないくつかの建物の間を通り、広い庭を横ぎり、また暗い建物の中に入りそれを突き抜けた。病舎に着くとすぐに病室に入れられ、氷を胸の上にのせて、太田は絶対|仰臥《ぎょうが》の姿勢を取ることになったのである。
 七日の間、彼は夜も昼もただうつらうつらと眠りつづけた。その間にも、凝結した古血のかたまりを絶えず吐き続けた。彼は自分の突然落ちこんだ不幸な運命について深く考えてみようともしなかった。いや、彼のぶつかった不幸がまだあまりに真近くて彼自身がその中において昏迷《こんめい》し、その不幸について考えてみる心の余裕を取り戻していなかったのであろう。やがて落着きを充分に取り戻すと同時に、どんなみじめな思いに心が打ち摧《くだ》かれるであろうか、ということが意識の奥ふかくかすかに予想はされるのではあったが。重湯と梅ぼしばかりで生きた七日ののち、彼はようやく静かに半身を起して身体のあちらこちらをさすってみて、この七日の間に一年も寝ついた病人の肉体を感じたのである。まばらひげの伸びた顎《あご》を撫《な》でながら、彼はしみじみと自分の顔が見たいと思った。ガラス戸に這《は》い寄って映して見たが光るばかりで見えなかった。やがて尿意をもよおしたので静かに寝台をすべり下り、久しぶりに普通の便器に用を足したが、その便器のなかに澱《よど》んだ水かげに、彼ははじめてやつれた自分の顔を映して見ることができたのであった。
 八日目の朝に看病夫が来て、彼の喀痰《かくたん》を採って行った。
 それからさらに二日|経《た》った日の夕方、すでに夕飯を終えてからあわただしく病室の扉《とびら》が開かれ、先に立った看守が太田に外へ出ることを命じたのである。そして許された一切の持物を持って出ることをつけ加えた。夕飯後の外出ということはほとんどないことである。彼は不審そうにつっ立って看守の顔を見た。
「転房だ、急いで」
 看守は簡単に言ったままずんずん先に立って歩いて行く。太田は編笠《あみがさ》を少しアミダにかぶってまだふらふらする足を踏みしめながらその後に従ったが、――そうしてやがて来てしまったここの一廓は、これはまたなんという陰気に静まりかえった所であろう。一体に静かに沈んでいるのはここの建物の全体がそういう感じなのだが、その中にあってすらこんなところがあるかと思われるような、特にぽつんと切り離されたような一廓なのである。なるほど刑務所の内部というものは、行けども行けども尽きることなく、思いがけない所に思いがけないものが伏せてある(原文三字欠)にも似ているとたしかにここへ来ては思い当るようなところであった。もう秋に入って日も短かくなったこととて、すでにうっすらと夕闇《ゆうやみ》は迫り、うす暗い電気がそこの廊下にはともっていた。建物は細長い二棟《ふたむね》で廊下をもって互いに通ずるようになっている。不自然に真白く塗った外壁がかえってここでは無気味な感じを与えているのである。この二棟のうちの南側の建物の一番端の独房に太田は入れられた。何か聞いてみなければ心がすまないような気持で、ガチャリと鍵の音のした戸口に急いで戻って見た時には、もうコトコトと靴音が長い廊下の向うに消えかけていた。
 房内はきちんと整頓《せいとん》されていてきれいであった。入って右側には木製の寝台があり、便所はその一隅に別に設けてあり、流しは石でたたんで水道さえ引かれているのである。試みに栓《せん》をひねってみると水は音を立てて勢いよくほとばしり出た。窓は大きく取ってあって寝台の上に坐りながらなお外が見通されるくらいであった。太田が今日まで足かけ三年の間、いくつかその住いを変えて来た独房のうちこんなに綺麗《きれい》で整いすぎる感じを与えた所はかつてどこにもなかった。それは彼を喜ばせるよりもむしろ狼狽《ろうばい》させたのであった。俺は一体どこへ連れて来られたのであろう、ここは一体どこなのだ?
 あたりは静かであった。他の監房には人間がいないのであろうか、物音一つしないのである。それにさっきの看守が立ち去ってからほぼ三十分にもなるであろうが、巡回の役人の靴音も聞えない。いつも来るべきものが来ないと言うことは、この場合、自由を感じさせるよりもむしろ不安を感じさせるのであった。
 腰をかけていた寝台から立ち上って、太田は再び戸口に立ってみた。心細さがしんから骨身に浸《し》みとおってじっとしてはいられない心持である。扉にもガラスがはめてあって、今暮れかかろうとする庭土を低く這って、冷たい靄《もや》が流れているのが見えるのである。
「………………」
 ふと彼は人間のけはいを感じてぎょっとした。二つおいて隣りの監房は広い雑居房で、半分以上も前へせり出しているために、しかもその監房には大きく窓が取ってあるために、その内部の一部分がこっちからは見えるのであった。廊下の天井に高くともった弱い電気の光りに眼を定めてじっと見ると、窓によって大きな男がつっ立っているのだ。瞬《またた》きもせず眼を据《す》えてこっちを見ているのだが、男の顔は恐ろしく平べったくゆがんで見えた。何とはなしに冷たい氷のようなものが太田の背筋を走った。その男の立っている姿を見ただけで、何か底意地のわるい漠然《ばくぜん》たる敵意が向うに感ぜられるのだが、太田は勇気を出して話しかけてみたのであった。
「今晩は」
 それにはさらに答えようともせず、少し間をおいてから、男はぶっきら棒に言い出したのである。
「あんた、ハイかライかね?」
 その意味は太田には解しかねた。
「あんた、病気でここへ来なすったんだろう。なんの病気かというのさ」
「ああ、そうか。僕は肺が悪いんだろうと思うんだが」
「ああ、肺病か」
 突っぱねるように言って、それからペッとつばを吐く音がきこえた。
「あんたも病気ですか、なんの病気なんです? そしていつからここに来ているんです」
 明らかに軽蔑《けいべつ》されつき放された心細さに、いつの間にか意気地なくも相手に媚《こ》びた調子でものを言っている自分をさえ感じながら、太田はせき込んで尋ねたのであった。
「わしは五年いるよ」
「五年?」
「そうさ、一度ここへ来たからにゃ、焼かれて灰にならねえ限り出られやしねえ」
「あんたも病気なんですか、それでどこが悪いんです?」
 男は答えなかった。くるっと首だけ後ろに向けて、ぼそぼそと何か話している様子だったが、またこっちを向いた。その時気づいたことだが、彼は別にふところ手をしている風にもないのだが、左手の袖《そで》がぶらぶらし、袖の中がうつろに見えるのであった。
「わしの病気かね」
「ええ」
「わしは、れ・ぷ・ら、さ」
「え?」
「癩病《らいびょう》だよ」
 しゃがれた大声で一と口にスバリと言ってのけて、それから、ざまア見やがれ、おどろいたか、と言わんばかりの調子でヘッヘッヘッとひっつるような笑い声を長く引きながら監房の中に消えてしまった。その笑い声に応じて、今まで静かであった監房の中にもわっという叫び声が起り、急に活気づいたような話し声がつづいて聞えて来るのであった。すっかり惨《みじ》めに打ちひしがれた思いで太田は自分の寝台に帰った。いつか脂汗が額にも背筋にもべとべととにじんでいた。わきの下に手をあててみると火のように熱かった。二、三分、狭い監房の中を行ったり来たりしていたが、それから生温《なまぬる》い水にひたした手ぬぐいを額にのせてぐったりと横になり、彼は暁方までとろとろと夢を見ながら眠った。

     3

 朝晩吐く痰に赤い色がうすくなり、やがてその色が黒褐色《こっかっしょく》になり、二週間ほど経って全然色のつかない痰が出るようになり、天気のいい日にはぶらぶら運動にも出られるようになったころから、ようやく太田にはこの新らしい世界の全貌《ぜんぼう》がわかって来たのである。ここへ来た最初の日、雑居房の大男が、「ハイかライか?」と突然尋ねた言葉の意味もわかった。この隔離病舎の二棟のうち、北側には肺病患者が、南側には癩病患者が収容せられているのであった。癩病人と棟を同じくしている肺病患者は太田だけで、南側の建物の一番東のはしにただひとりおかれていた。
 社会から隔離され忘れられている牢獄のなかにあって、さらに隔離され全く忘れ去られている世界がここにあったのだ。何よりもまず何か特別な眼をもって見られ、特別な取扱いを受けているという感じが、新しくここへ連れ込まれた囚人の、彼ら特有の鋭どくなっている感覚にぴんとこたえるのであった。十分間おきぐらいにはきまって巡回するはずの役人もこの一廓にはほんのまれにしか姿を見せなかった。たとえ来てもその一端に立って、全体をぐるりと一と睨《にら》みすると、そそくさと急いで立ち去ってしまうのである。担当の看守はもう六十に手のとどくような老人で、日あたりのいい庭に椅子《いす》を持ち出し、半ばは眠っているのであろうか、半眼を見開いていつまでもじっとしていることが多かった。監房内にはだからどんな反則が行われつつあるか、それは想像するに難くはないのである。すべてこれらの取締り上の極端なルーズさというものは、だが、決して病人に対する寛大さから意識して自由を与えている、という性質のものではなく、それが彼らに対するさげすみと嫌悪《けんお》の情とからくる放任に過ぎないということは、ことごとにあたっての役人たちの言動に現われるのであった。用事があって報知機がおろされても、役人は三十分あるいは一時間の後でなければ姿を見せなかった。ようやく来たかと思えば、監房の一間も向うに立って用事を聞くのである。うむ、うむ、とうなずいてはいるが、しかしその用事が一回でこと足りたということはまずないといっていいのである。――よほど後のことではあるが、太田は教誨師《きょうかいし》を呼んで書籍の貸与方を願い出たことがあった。監房に備えつけてある書籍というものは、二、三冊の仏教書で、しかもそのいずれもが表紙も本文もちぎれた読むに堪えない程度のものであったから。教誨師が仔細《しさい》らしくうなずいて帰ったあとで、掃除夫《そうじふ》の仕事をここでやっている、同じ病人の三十番が太田に訊《き》くのであった。――「太田さん教誨師に何を頼みなすった?」「なに、本を貸してもらおうと思ってね」「そりゃ、あなた、無駄《むだ》なことをしなすったな。一年に一度、役に立たなくなった奴を払い下げてよこす外に、肺病やみに貸してくれる本なんかあるもんですか。第一、坊主なんかに頼んで何がしてもらえます? あんたも共産党じゃないか。頼むんなら赤裏[#「赤裏」に傍点](典獄のこと)に頼むんです
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