、なみなみならぬ気はいを感じた。
「どうしたのです、太田さん。岡田って知ってでもいるんですか」
「いや……、ただちょっときいたような名なんだが」
 さり気なく言って太田は監房の中へ戻って来た。強い打撃を後頭部に受けた時のように目の前がくらくらし、足元もたよりなかったが、寝台の端に手をかけてしばらくはじっと立ったまま動かずにいた。それから寝台の上に横になって、いつも見慣れている壁のしみを見つめているうちに、ようやく心の落ち着いて行くのを感じ、そこで改めて「岡田良造」という名を執拗に心のなかで繰り返し始めたのである。――あのみじめな癩病患者が同志岡田良造の捕われて後の姿であろうとは!
 混乱した頭脳が次第に平静に帰するにつれて、回想は太田を五年前の昔につれて行った。――そのころ太田は大阪にいて農民組合の本部の書記をしていた。ある日、仕事を終えて帰り仕度《じたく》をしていると、労働組合の同志の中村がぶらりと訪《たず》ねて来た。ちょっと話がある、と彼はいうのだ。二人は肩を並べて事務所を出た。ぶらぶらと太田の間借りをしている四貫島《しかんじま》の方へ歩きながら、話というのは外でもないが、と中村は
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