者の場合は様子がそれとはまるでちがっていた。彼はいつもここの世界には不似合いな平然たる顔つきをし、運動の時にはもう長い間、何回も歩き慣れた道のように、さっさと脇目《わきめ》もふらずかの花園の間の細道を歩くのである。どこかえたいの知れない所へ連れて来られたという不安がその顔に現われ、きょときょととした顔つきをし、何か問いたげにきょろきょろあたりを見まわす、といったような態度をその男に期待していた他の患者たちは失望した。静かではあるが、どこか人もなげにふるまっているような落ち着き払ったその男の態度に、彼らは何かしらふてぶてしいものを感じ、ついには、へん、高くとまっていやがる、といった軽い反感をさえ抱くようになり、白い眼を光らしてしれりしれりと男の横顔をうかがって見るのであった。
静かと言えばその男のここでの生活は極端に静かであった。一日に一度の運動か、時たまの入浴の時ででもなければ人々は彼の存在を忘れがちであった。だだっ広い雑居房にただひとり、男は一体何を考えてその日その日を暮しているのであろうか。書物とてここには一冊もなく、耳目を楽します何物もなく、一日一日自分の肉体を蝕《むし》ばむ業
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