知機がおろされても、役人は三十分あるいは一時間の後でなければ姿を見せなかった。ようやく来たかと思えば、監房の一間も向うに立って用事を聞くのである。うむ、うむ、とうなずいてはいるが、しかしその用事が一回でこと足りたということはまずないといっていいのである。――よほど後のことではあるが、太田は教誨師《きょうかいし》を呼んで書籍の貸与方を願い出たことがあった。監房に備えつけてある書籍というものは、二、三冊の仏教書で、しかもそのいずれもが表紙も本文もちぎれた読むに堪えない程度のものであったから。教誨師が仔細《しさい》らしくうなずいて帰ったあとで、掃除夫《そうじふ》の仕事をここでやっている、同じ病人の三十番が太田に訊《き》くのであった。――「太田さん教誨師に何を頼みなすった?」「なに、本を貸してもらおうと思ってね」「そりゃ、あなた、無駄《むだ》なことをしなすったな。一年に一度、役に立たなくなった奴を払い下げてよこす外に、肺病やみに貸してくれる本なんかあるもんですか。第一、坊主なんかに頼んで何がしてもらえます? あんたも共産党じゃないか。頼むんなら赤裏[#「赤裏」に傍点](典獄のこと)に頼むんです
前へ 次へ
全80ページ中20ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島木 健作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング