あった。感覚の有無を調べているのであろう。わかるかね、と医者に言われると岡田はかすかに首を左右にふった。いうまでもなく否定の答えである。医者はそれから、力を入れないで、力を入れないで、といいながら、岡田の手足の急所急所を熱心に揉《も》みはじめた。どうやら身体じゅうの淋巴腺《りんぱせん》をつかんで見ているものらしい。時々医者が何かいうと、岡田はそのたびに首を軽く縦にふったり、横にふったりする。 
 ――そういうようなことをおよそ半時もつづけ、それから眼を診《み》たり、口を開けさせてみたり、――身体じゅうを隈《くま》なく調べた上で三人の医者は帰って行った。
 その後よほど経ってのち、同じように窓の上と下で最後に岡田と逢った時、太田はこの時の診察について彼に訊いてみた。「今ごろどうしたんです? 今まで誤診でもしていたんで診なおしに来たんじゃないのですか」事実太田はそう思っていた。そう思うことが、空頼みにすぎないような気もするにはしたが。しかし岡田はその時のことを大して念頭にも止めていない様子で答えた。
「診なおすというよりも、最後的断定のための診察でしょう……今までだってわかるにはわかっていたんだが。あの二人は大阪近郊の癩療養所の医者なんです。つまり専門家に診せたわけですね。鼻汁《はなじる》のなかに菌も出たらしい……この病気は鼻汁のなかに一番多く菌があるんだそうです。今度ですっかりきまったわけで、死刑の宣告みたいなものです」
 ――その後、太田は岡田と話をする機会をついに持たなかった。

     8

 灰いろの一と色に塗りつぶされた、泣いても訴えても何の反響もない、澱《よど》んだ泥沼のようなこの生活がこうしていつまで続くことであろうか。また年が一つ明けて春となり、やがてじめじめとした梅雨期になった。――あちこちの病室には、床につきっきりの病人がめっきりふえて来た。毎年のことながらそれは同じ一と棟に朝晩寝起きをともにする患者たちの心を暗くさせた。――五年の刑を四年までここでばかりつとめあげて来た朝鮮人の金が、ある雨あがりのかッと照りつけるような真ッぴるまに突然発狂した。頭をいきなりガラス窓にぶっつけて血だらけになり、何かわけのわからぬことを金切り声にわめきながら荒れまわった。細引きが肉に食い入るほどに手首をしばり上げられ、ずたずたに引き裂かれた囚衣から露出した両肩は骨ばっていたいたしく、どこかへ引きずられて行ったが、その夜から、この隔離病舎にほど近い狂人《きちがい》監房からは、咽喉《のど》の裂けるかと思われるまで絞りあげる男の叫び声が聞えはじめたのである。それは金の声であった。哀号、哀号、と叫び立てる声がやがて、うおーッうおーッというような声に変って行く。それは何かけだものの遠吠《とおぼ》えにも似たものであった。――そういう夜、五位鷺《ごいさぎ》がよく静かに鳴きながら空を渡った。月のいい晩には窓からその影が見えさえした。
 梅雨《つゆ》に入ってからの太田はずっと床につきっきりであった。梅雨が上って烈しい夏が来てからは、高熱が長くつづいて、結核菌が血潮のなかに流れ込む音さえ聞えるような気がした。それと同時に彼はよく下痢をするようになった。ちょっとした食物の不調和がすぐ腹にこたえた。その下痢が一週間と続き、半月と続き――そして一と月に及んでもなお止まろうとはしなかった時に、彼は始めて、ただの胃腸の弱さではなく自分がすでに腸を犯されはじめていることを自覚するようになったのである。診察に来た医者は診終ると、小首を傾けて黙って立ち去った。
 そのころから太田は、自分を包む暗い死の影を感ずるようになった。寝台の上にちょっと立ち上っても貧血のために目の前がぼーッとかすむようになると、彼はしばしば幻影に悩まされ始めた。剥《は》げかかった漆喰《しっくい》の壁に向ってじっと横臥《おうが》していると、眼の前を小さな虫のような影がとびちがう。――その影の動くがままに眼を走らせていると、それが途方もない巨大なものの影になって壁一ぱいに広がってくる。それはえたいの知れない怪物の影であることが多かった。恐怖をおさえてじっとその影に見入っていると、やがてそれがぽっかりと二つに割れ、三つにも、四つにも割れて、その一つ一つが今もなお故郷にいるであろう、老母の顔や兄の顔に変るのである。それと同時に夢からさめたように、現実の世界に立ちかえるのがつねであった。――夜寝てからの夢の中では、自分が過去において長い長い時間の間に経験して来たいろいろの出来事を、ほんの一瞬間に走馬燈のように見ることが多かった。そういう時は自分自身の苦悶《くもん》の声に目ざめるのであった。太田は死の迫り来る影に直面して、思いの外平気でおれる自分を不思議に思った。ものの本などで見る時には、劇的な、浪漫
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