担当の老看守の戻って来る気はいを感じ、太田はさり気なく窓の下を退きながら、肝腎《かんじん》なことを聞くのを忘れていたことに気がついて訊《たず》ねたのであった。
「そして、君は何年だったんです」
「七年」
七年という言葉に驚愕《きょうがく》しながら太田は監房へ帰った。七年という刑は岡田が転向を肯《がえん》じなかったこと、彼が敵の前に屈伏しなかったことを物語っている。彼の言葉によれば、控訴公判の始まる時にはもうレプロシイの診断がほぼ確定的であったというのだ。だが、彼の公判廷における態度が、その病気によってどうにも変らなかったことだけはたしかである。岡田との対話を一つ一つ思い出し、ことに眠れないようでは駄目だ、といった言葉や、最後の言葉の中なぞに、昔のままの彼を感じ、太田ははげしく興奮しその夜はなかなかに寝つかれないほどであった。
その日から以後の太田は毎日の生活に生き生きとした張合いを感じ、朝起きることがたのしみとなった。岡田と一緒に同じこの棟の下に住むということが彼に力強さを与えた。岡田は太田と逢ったその日以後も、依然物静かで変った様子もなく、自分の方から積極的に接近しようとする態度をも別に示そうとはしなかった。しかし運動時間には互いに顔を見合わせて、無量の感慨をこめた微笑を投げ合うのであった。ただ、岡田の今示している落着きは決して喪心した人間の態度などでないことは明らかであり、むしろ底知れぬ人間の運命を見抜いているかのような、不思議な落着きをさえ示しているのだが――しかし、彼のこうした落着きの原因をなしているところのものは一体なんであろうか? という点になると彼に逢って話した後にも、太田には全然わからないのであった。おそらくそれは永久に秘められた謎であるかも知れない。――その後、太田はほんの短かい時間ではあったが、二、三度岡田と話す機会を持った。その話し合いの間に二人は、言葉遣いや話の調子までもうすっかり昔のものを取り戻していた。「君の今の気持ちを僕は知りたいんだが。……」聞きたいと思うことの適切な言い現わし方に苦しみながら、太田はその時そんな風に訊いてみたのであった。「僕の今の気持ちだって?」岡田は微笑した。「それは僕自身にだってもっと掘り下げてみなければわからないようなところもあるし……それにここでは君に伝える方法もなし、また言葉では到底いい現わし得ないものがあるようだ」そういって彼は考え深そうな目つきをした。
「ただこれだけのことははっきりと今でも君に言える。僕は身体が半分腐って来た今でも決して昔の考えをすててはいないよ。それは決して瘠せ我慢ではなく、また、何かに強制された気持で無理にそう考えているのでもないんだ。実際こんな身体になって、なお瘠せ我慢を張るんでは惨めだからね。――僕のはきわめて自然にそうなんだ。そうでなければ一日だって今の僕が生きて行けないことは君にもよくわかるだろう。……それから僕は、どんなことになっても決して、監獄で首を縊《くく》ったりはしないよ。自分で自分の身体の始末の出来る限りは生きて行くつもりだ」岡田はその時、持ち前の静かな低音でそれだけのことを言ったのである。
その話をしてから一週間ほど経ったある日の午後、洋服の上に白衣を引っかけた一見して医者と知れる三人の紳士が突然岡田の監房を訪ずれたのであった。扉をあけて何かガヤガヤと話し合っている様子であったが、やがて「外の方が日が当って暖かくっていいだろう」というような声がきこえ、岡田を先頭に四人が庭に下り立って行く姿が見えた。而してそこで岡田の着物をぬがせ、彼は犢鼻褌《ふんどし》ひとつの姿になってそこに立たせられた。――ちょうどそれは癩病患者の監房のすぐ前の庭の片隅で、よく日のあたる場所であったが、少し背のび加減にすると太田の監房から見る視野の中に入るので、彼は固唾《かたず》を呑んでその様子を眺めたのである。
三人のうち二人は見なれない医者で一人はここの監獄医であった。その二人のうちの年長者の方が、頭の上から足の先まで岡田の全身をじっと見つめている。岡田は何かいわれて身体の向きを変えた。太田の視線の方に彼が背中を向けた時、太田は思わずあッと声を立てるところであった。首筋から肩、肩から背中にかけて、紅色の大きな痣《あざ》のような斑紋《はんもん》がぽつりぽつりと一面にできているのだ。裸体になって見ると色の白い彼の肌にそれは牡丹《ぼたん》の花弁のようにバッと紅《あか》く浮き上っている。
医者が何かいうと岡田は眼を閉じた。
「ほんとうのことをいわんけりゃいかんよ。……わかるかね、わかるかね」そういうような言葉を医者は言っているのだ。よく見ると、岡田は両手を前に伸ばし、医者は一本の毛筆を手にしてそれの穂先で、岡田の指先をしきりに撫《な》でているので
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