守は太田ひとりの運動の時には別に監視するでもなく、その間植木をいじったり、普通病舎の方の庭に切り花を取りに行ったりして、運動時間なども厳格な制限もなくルーズだったが、さて、話をするほどの機会はなかなか来なかった。しかし、普通病舎の庭に咲き誇った秋菊の移植が始まり、ちょうどある日の太田の運動時間に三、四人の雑役夫が植木鉢《うえきばち》をかかえて来た時に、花好きな老看守はそっちの方へ行ってしまい、ついに絶好のその機会が来たと思われた。折よく便所へでも立ったのであろうか、ガラス窓の彼方《かなた》に岡田の立ち姿を認めた時、太田は非常な勇気をふるって躊躇《ちゅうちょ》することなく真直《まっす》ぐに進んで行った。そして窓の下に立った。
上と下で二人の視線がカッチリと出会った時、妙に表情の硬《こわ》ばるのを意識しながら、太田は強《し》いて笑顔を作った。
「岡田君ですか」太田はあらゆる感情をこめて、ただ岡田の名をのみ呼んだ。そしてしばらくだまった。「僕は太田です。太田二郎です。(原文三字欠)にいた(原文二字欠)、知っていますか」
毎日もう幾回となく、始めて二人が顔を合わせた時のことを想像し、その時言い出すべき言葉をも繰り返し考えていたのだが、さてその時の今となっては言うべき言葉にもつまり、ひどい混乱を感じた。岡田は太田に答えて、白い歯を見せて微笑した。白い綺麗《きれい》に揃《そろ》った歯並だけが昔のままで、それがかえって不調和な感じを与えた。
「知ってますとも。妙な所で逢いましたね」穏やかに落ち着いた調子の声であった。それから彼は続けた。「ほんとうにしばらくですね。僕はここへ来た翌日にもう君に気がついていたんです。けれど遠慮してだまっていました。何しろ僕はこんな身体になったのでね、君をおどろかせても悪いと思ったし……」
太田は岡田のその言葉をきいて、そうかやっぱりそうだったのか、岡田だったのか、とほっとしたような気持で思った。彼自身の口からはっきりとそう名乗られるその瞬間までは、やはり何だか嘘のような気がし、人間が違うような気がして、心のはるかの奥底では半信半疑でいたのである。
「それで君はいつやられたんです。三・一五には無事だったはずだが」
「おなじ年の八月です。たった半年足らず遅かっただけ。実にあっけなかったよ」
絶えず微笑を含んで言っているのだが、その調子には非常に明るいものがあって、あまりにも昔のままなのにむしろ驚かされるのであった。外貌のむごたらしい変化に比べて少しも昔に変らぬその調子は鋭く聞く者の胸を打つのである。
「病気は……」太田はそれを言いかけて口ごもりながら、思いきって尋ねた。「身体はいつごろからわるいんです」
「そう、始めて皮膚に徴候が現われたのは捕まった年の春。しかしその時にはどうしたものかすぐに引っこんでしまった。その時には別に気にもとめなかったんです。それから控訴公判の始まった年の夏にはもうはっきり外からでもわかるようになっていてね、そのころにはもうレプロシイの診断もついていたらしいのです」
「外の運動も随分変ったようですね」
岡田の言葉のちょっと切れるのを待って太田は今までの話とはまるで無関係な言葉を突然にさしはさんだ。病気のことにあまり深くふれるのが何とはなしに恐ろしく思われたのである。そしてここへ来てから偶然に耳にしたニュースのようなものを二つ三つ話した。しかし話をしているうちに、昔の岡田ではない、今日、もうそうした世界には全然復帰する望みを失った彼に、そういうことについて、得意らしく話しているような自分自身が省みられ、彼はすぐに口をつぐんでしまった。
「あの監房には本なんかありますか」
「全然ないんですよ」
「毎日どうしてるんです」
「なに、毎日だまって坐っていますよ」そこで岡田はまた白い歯を出して笑った。「君は夜眠られないって言っているようですが、病気のせいもあろうが、もっと気を楽に持つようにしなければ。もっともこれは性質でなかなか思うようにはならないらしいが」――太田が不眠症に悩んで、たびたび医者に眠り薬を要求したりしているのをいつの間にか知っていたのだろう、岡田はそういって忠告した。「僕なんか、飯も食える方だし、夜もよく眠りますよ」
「少し考えすぎるんでしょうね」彼は続けて言った。
「そりゃ考えるなといってもここではつきつめて物を考えがちだが……、しかしここで考えたことにはどうもアテにならぬことが多いんです。何かふっと思いついて、素晴らしい発見でもしたつもりでいてもさて社会へ出てみるとペチャンコですよ。ここの世界は死んでおり、外の社会は生きていますからね。……こんなことは君に言うまでもないことだが、これは僕が昔|騒擾《そうじょう》で一年くった時に痛感したことだもんだから」
ちょうどその時、
前へ
次へ
全20ページ中17ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島木 健作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング