うはっきりしたものではなかったし、それに岡田は三・一五の検挙には洩《も》れた一人であったから、その後彼の捕われたことを少しも知らなかった太田が、異様な癩病患者を見てどこかで見たことがある男と思いながらも、すぐに岡田であると認め得なかったことは当然であった。かの癩病患者が岡田良造であることを知り、そのおどろきの与えた興奮がやや落ち着いて行くにつれて、岡田は一体いつ捕われたのであろう、そしていつからあんな病気にかかったのであろう、少しもそんな素ぶりは見せないが、彼ははたして自分が太田二郎であることを知っているだろうか、いずれにしても自分は彼に対してどういう風に話しかけていったらいいだろうか、いや、第一、話しかけるべきであろうか、それとも黙っているべきであろうか、などといういろいろな疑問がそれからそれへと太田の昏迷《こんめい》した頭脳をかけめぐるのであった。
その翌日、運動時間を待ちかねて、彼は今までにかつてない恐怖の念をもって運動中のかの男の顔を見たのである。初めは恐る恐る偸《ぬす》み見たが、次第に太田の眼はじっと男の顔に釘《くぎ》づけになったまま動かなかった。そういわれて見ればなるほどこの癩病患者は岡田なのだ。だが、昔毎日彼と顔をつき合わして暮していた人間でさえも、そういわれてみて改めて見直さない限りそれと認めることはできないであろう。今、心を落ち着けてしみじみと見直してみると、広い抜け上った額と、眼と眉の迫った感じに、わずかに昔の岡田の面影が残っているのみなのである。広い額は、その昔は、その上に乱れかかっている長髪と相俟《あいま》って卓抜な俊秀な感じを見る人に与えたが、頭髪がうすくまばらになり、眉毛もそれとは見えがたくなった今は、かえって逆にひどく間の抜けた感じをさえ与えるのであった。暗紫色に腫れあがった顔は無気味な光沢を持ち、片方の眼は腫れふさがって細く小さくなっていた。色の褪《あ》せた囚衣の肩に、いくつにも補綴《つぎ》があててあり、大きな足が尻の切れた草履からはみ出している姿が、みじめな感じをさらに増しているのであった。本人は常日ごろと変りなく平気でスタスタと早足に歩き、時々小走りに走ったりして、その短かい運動時間を楽しんでいるらしいのだが、もう秋もなかばのかなり冷たい風に吹きさらされて、心持ち肩をすぼめ加減にして歩いて行くその後ろ姿を見送った時、ああこれがあの岡田の変り果てた姿かと思い、それまでじっと堪《こら》えながら凝視していたのがもう堪えがたくなって、窓から離れると寝台の上に横になり布団をかぶってなおもしばらくこらえていたが、やがてぼろぼろと涙がこぼれはじめ、太田はそのまま声を呑んで泣き出してしまったのである。
数えがたいほどの幾多の悲惨事が今までに階級的政治犯人の身の上に起った。ある同志の入獄中に彼の同志であり愛する妻であった女が子供をすてて、どっちかといえばむしろ敵の階級に属する男と出奔し、そのためにその同志は手ひどい精神的打撃を受けてついに没落して行った事実を太田はその時まざまざと憶い出したのであったが、そうした苦しみも、あるいはまた、親や妻や子など愛する者との獄中での死別の苦しみも――その他一切のどんな苦しみも、岡田の場合に比べては取り立てて言うがほどのことはないのである。それらのほかのすべての場合には、「時」がやがてはその苦悩を柔らげてくれる。何年か先の出獄の時を思えば望みが生じ、心はその予想だけでも軽く躍《おど》るのである。――今の岡田の場合はそんなことではない、彼にあっては万事がもうすでに終っているのだ。そういう岡田は今日、どういう気持で毎日を生きているのであろうか、今日自分自身が全く廃人であることを自覚しているはずの彼は、どんな気持を持ち続けているであろうか、共産主義者としてのみ生き甲斐を感じまた生きて来た彼は、今日でもなおその主義に対する信奉を失ってはいないであろうか、それとも宗教の前に屈伏してしまったであろうか、彼は自殺を考えなかったであろうか?
これらの測り知ることのできない疑問について知ることは、今の太田にとってはぞくぞくするような戦慄感を伴った興味であった。――いろいろと思い悩んだあげく、太田は思いきって岡田に話しかけてみることにした。変り果てた今の彼に話しかけることは惨酷な気持がしないではないが、知らぬ顔でお互いが今後何年かここに一緒に生活して行く苦しさに堪えられるものではない。そう決心して彼との対面の場合のことを想像すると、血が顔からすーと引いて行くのを感じ、太田は蒼白《そうはく》な面持で興奮した。
7
太田は運動の時にはちょうど岡田の監房の窓の下を通るので、話をするとすれば運動時間を利用するのが、一番いい方法なのであるが、その機会はなかなかに来なかった。担当の老看
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