切り出したのであった。――じつは今度、クウトベから同志がひとり帰って来たのだ。三年前に日本を発《た》った時には、ある大きな争議の直後で相当眼をつけられていた男だけに今度帰ってもしばらくは表面に立つことができない。それで当分日本の運動がわかるまで誰かの所へ預けたいが、労働組合関係の人間のところは少し都合がわるい、君は農民組合だし、それに表面は事務所で寝泊りしていることになっていて、四貫島の間借りは一般には知られていないから好都合だ。一と月ばかりどうかその男を泊めてやってくれないか、と中村は話すのであった。――よろしい、と太田が承知をすると、実は六時にそこの喫茶店で逢うことになっているのだ、とその場所へ彼を連れて行った。そこには、太田と同年輩の和服姿の男が一人待っており、二人を見るとすぐににこにこしだし、僕、山本正雄です、どうぞよろしく、と中村の紹介に答えて太田に挨拶をするのであった。――話をしているうちにその言葉のなかに、東北の訛《なま》りを感じ、質朴《しつぼく》なその人柄に深く心を打たれたが、その山本正雄が岡田良造であったことを太田はずっと後になって何かの機会に知ったのであった。
 太田は当時、四貫島の、遠縁にあたる親戚《しんせき》の家の部屋を借りて住んでいた。二階の四畳半と三畳の両方を彼は使っていたので、その四畳半を岡田のために提供したのである。彼らは部屋を隣り合わせているというだけで、別に話をするでもなく、暮した。太田は朝早く家を出、遅《おそ》くなって帰る日が多いのでしみじみ話をする機会もなかったわけである。彼が夜遅く帰ってくると、岡田は寝ていることもあったが、光度の弱い電燈を低くおろして何かゴソゴソと書きものをしていることもあった。朝なども彼の起きるよりもまだ早くぷいと家を出て、一日帰らないような日もあった。そういう生活がほぼ一と月もつづき、めっきりと寒くなった十一月のある日の朝、岡田は家を出たきり、ついに太田のもとへは帰って来なかったのである。――何か事情があるのだろうとは思ったが、ちょうどその日の朝、何のつもりか岡田はまだ寝ている太田の部屋の唐紙《からかみ》を開けて見て、何かものを言いたげにしたが、そこに一枚のうすい布団を、柏餅《かしわもち》にして寝ている太田の姿を見ると、ほっ、と驚いたような声をあげてそのまま戸を閉《し》めてしまった。――それはちょうど、二枚しかなかった布団の一枚を、寒くなったので岡田に貸したその翌日だったので、自分の柏餅の寝姿を見て、案外気立ての柔《やさ》しそうな岡田のことゆえ、気の毒がって他所《よそ》へ移ったのかも知れない、などとも太田には考えられるのであった。心がかりなので二、三日してから中村に逢って尋ねると、彼はすっかり合点《がてん》して、「いや、いいんだ、今日あたり君に逢って話そうかと思っていたところだよ。奴も落ち着くところへ落ち着いたらしいんだ。長々ありがとう」というのであった。――一九二×年十一月、日本の党はようやくその巨大な姿を現わしかけ、大きな決意を抱いて帰った山本正雄こと岡田良造は、その重要な部署に着くために姿をかくしたのである。
 ちょうどそれと前後して太田は大阪を去り、地方の農村へ行って働くことになった。同じ年の春、この国を襲った金融恐慌の諸影響は、ようやくするどい矛盾を農村にもたらしつつあったのである。太田はいくつかの大小の争議を指導しやがて正式に(原文二字欠)となった。彼は大阪に存在すると思われる上部機関に対して絶えず意見を述べ、複雑で困難な農民運動の指導を仰いだ。而してそれに対する返書を受け取るたびごとに彼はいつも舌を捲《ま》いておどろいたのである。なんという精鋭な理論と、その理論の心憎いまでの実践との融合であろう! 彼が肝胆を砕いて錬《ね》り上げ、もはや間然するところなしとまで考えて提出する意見が、根本的にくつがえされて返される時など、自信の強かった太田は怫然《ふつぜん》として忿懣《ふんまん》に近いものすら感じた。しかし熟考してみればどんな場合にも相手の意見は正しく、彼はついには相手に比べて自分の能力のあまりにも貧しいことを悲しく思ったほどであった。それと同時に彼は思わず快心の笑みをもらしたのである。なんという素晴らしい奴が日本にも出て来たもんだ! それから太田は、今掃除したばかりと思うのに、もう煤煙《ばいえん》がどこからか入って来て障子の桟《さん》などを汚《よご》す大阪の町々のことを考え、それらの町のどこか奥ふかく脈々と動いているであろう不屈の意志を感じ――すると、腹の真の奥底から勇気がよみがえって来るのであった。この太田の意見書に対する返書の直接の筆者が岡田良造であったことを、捕われた後に、太田は取調べの間に知ったのである。
 太田の印象に残っている岡田の面貌はそ
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