病と相対しながら、ただ手を束《つか》ねて無為に過すことの苦しさは、隣りの男とでも話をする機会がなければ発狂するの外はないほどのものである。新入りの男はしかし、ただ一言の話をするでもなくまた報知機をおろして看守を呼ぶということもない。すべて与えられたもので満足しているのであろうか。何かを新しく要求する、ということとてもないのだ。しかも運動時間ごとに見るその顔は病気に醜く歪《ゆが》んではいるが、格別のいらだたしさを示すでもなく、その四肢は軽々と若々しい力に満ちて動くのである。
 太田が怪訝《けげん》に思うことの一つは、その男が今まで空房であった雑居房にただひとり入れられているということであった。今四人の患者のいる雑居房は八人ぐらいを楽に収容しうる大きさだから、彼をもそこに入れるのが普通なのである。その犯罪性質が、彼をひとりおかなければならぬものなのであろうか。それならば太田のすぐ一つおいて隣りの、今、村井源吉のいる独房に彼をうつし、村井を四人の仲間に入れるということもできるのである。村井の犯罪は何も独房を必要とする性質のものではないのだから。――ここまで考えて来た太田は、以前その男の顔を始めて見てどこか見覚えがある、と感じた瞬間に心の底にちらりと兆《きざ》した不吉な考えに再び思い当り、今まで無理に意識の底に押し込んでおいたその考えが再び意識の表面にはっきりと浮び上ってくるのに出会って慄然としたのであった。――自分の一つおいて隣りの監房に移してはならぬ独房の男、自分に近づけてはならぬ犯罪性質を持った男、といえば、自分と同一の罪名の下に収容されている者以外にはないのである。――かの新入りの癩病患者は同志に違いないのだ。そしていつの日にかかつて自分の出会ったことのある同志の一人の変り果てた姿に違いはないのだ!
 太田はかの癩病人が、自分の同志の一人であろう、という考えを幾度か抛棄《ほうき》しようとした。すべての否定的な材料をいろいろと頭の中にあげてみて、自分の妄想《もうそう》を打ち破ろうと試みた。そして安心しようとするのであった。太田はあの浅ましい癩病人の姿が、自分の同志であるということを断定する苦痛に到底堪えることはできまいと思われた。しかしまた他の一方では、確かに彼が同志であるということを論証するに足る、より力強いいくつかの材料を次々に挙げることもできるのである。彼は何日かの間のこの二つの想念の闘いにへとへとに疲れはてたのであった。その間かの男は毎日思い出せそうで思い出せないその顔を、依然運動場に運んで来るのである……。
 だが、物事はいや応なしに、やがては明らかにされる時が来るものである。その男がここへ来て一と月あまりを経たある日、手紙を書きに監房を出て行った村井源吉がやがて帰ってくると、声をひそめてあわただしく太田を呼ぶのであった。
「太田さん、起きてますか」
「ああ、起きてますよ、何です」
「例の一房の先生ね、あの先生の名前がわかりましたよ」
「なに、名前がわかったって!」太田は思わず身をのり出して訊いた。「どうしてわかったの? そして何ていうんです」
「岡田、岡田良造っていうんですよ。今、葉書を見て来たんです」
「え、岡田良造だって」
 村井は葉書を書きに廊下へ出て行き、そこで例の男が村井よりも先に出て書いて行った葉書を偶然見て来たのであった。癩病患者の書いたものに対するいとわしさから、書信係の役人が板の上にその葉書を張りつけ、日光消毒をしていたのを見て、村井は男の名を知ったのである。「え、岡田良造だって」と太田の問い返した言葉のなかに、村井は、なみなみならぬ気はいを感じた。
「どうしたのです、太田さん。岡田って知ってでもいるんですか」
「いや……、ただちょっときいたような名なんだが」
 さり気なく言って太田は監房の中へ戻って来た。強い打撃を後頭部に受けた時のように目の前がくらくらし、足元もたよりなかったが、寝台の端に手をかけてしばらくはじっと立ったまま動かずにいた。それから寝台の上に横になって、いつも見慣れている壁のしみを見つめているうちに、ようやく心の落ち着いて行くのを感じ、そこで改めて「岡田良造」という名を執拗に心のなかで繰り返し始めたのである。――あのみじめな癩病患者が同志岡田良造の捕われて後の姿であろうとは!
 混乱した頭脳が次第に平静に帰するにつれて、回想は太田を五年前の昔につれて行った。――そのころ太田は大阪にいて農民組合の本部の書記をしていた。ある日、仕事を終えて帰り仕度《じたく》をしていると、労働組合の同志の中村がぶらりと訪《たず》ねて来た。ちょっと話がある、と彼はいうのだ。二人は肩を並べて事務所を出た。ぶらぶらと太田の間借りをしている四貫島《しかんじま》の方へ歩きながら、話というのは外でもないが、と中村は
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