眼を見張りながら。――ものの二十分もそうしていたであろうか、やがてやや常態に復《かえ》ると心からの安心とともに深い疲れを感じ、気の抜けた人間のように窓によりかかって深い呼吸をした。彼は肺に浸み渡る快よい夜気を感じた。窓から月は見えなかったが星の美くしい夜であった。
――強度の神経衰弱の一つの徴候ともおもわれるこうした心悸亢進《しんきこうしん》に、太田はその年の夏から悩まされはじめたのである。それは一週に一度、あるいは十日に一度、きまって夜に来た。思い余った彼は、体操をやってみたり、静坐法をやってみたりした。しかしその発作から免れることはできなかった。体操や、静坐法や――太田はそういうものの完全な無力をよく熟知しながらも自分を欺いてそんなものに身を任せていたのだ。病気と拘禁生活による心身の衰弱にのみ、こうした発作を来す神経の変調の原因を帰することは彼にはできなかった。彼はその原因のすべてでないまでも、有力な一つを自分自身よく自覚していたのである。――若い共産主義者としての太田の心に、いつしか自分でも捕捉《ほそく》に苦しむ得体の知れない暗いかげがきざし、その不安が次第に大きなものとなり、確信に満ちていた心に動揺の生じ来ったことを自分みずから自覚しはじめ、そのために苦しみはじめたころから、彼は上述の発作に悩むようになったのであった。
太田の心のなかに漠然と生じ来った不安と動揺とは一体どんな性質のものであったろう、彼自身はっきりとその本質をつかみえず、そこに悩みのたねもあったのだが、動揺という言葉を、彼が従来確信をもって守り来った思想が、何らかのそれに反対の理論に屈服して崩れかかって来た――という意味に解するならば、いま、彼の心にきざして来た暗い影というのはそういう性質のものではない、ということだけはいえる。太田の心の動揺は、彼がここの病舎で癩病患者および肺病患者のなかにあって、彼らの日常生活をまざまざと眼の前に見、自分もまた同じ患者の一人としてそこに生活しつつある間に、夏空に立つ雲のごとくに自然にわいて来たものであった。それはつかまえどころのないしかし理屈ではないところに強さがある、といった性質のものであった。――言うならば太田は冷酷な現実の重圧に打ちひしがれてしまったのだ。共産主義者としての彼はまだ若く、その上にいわばインテリにすぎなかったから、実際生活の苦汁《くじゅう》をなめつくし、その真只中《まっただなか》から自分の確信を鍛え上げた、というほどのものではなかった。ふだんは結構それでいいのだが、一度たとえようもない複雑な、そして冷酷な人生の苦味につき当ると、自分の抱《いだ》いていた思想は全く無力なものになり終り、現実の重圧にただ押しつぶされそうな哀れな自己をのみ感じてくるのである。苛酷《かこく》な現実の前に闘《たたか》いの意力をさえ失い、へなへなと崩折れてしまい――自分が今までその上に立っていた知識なり信念なりが、少しも自分の血肉と溶け合っていない、ふわふわと浮き上ったものであったことを鋭く自覚するようになるのである。一度この自覚に到達するということは、なんという恐ろしい、そしてその個人にとっては不幸なことであろう。理論の理論としての正しさには従来どおりの確信を持ちながらも、しかもその理論どおりには動いて行けない自分、鋭くそういう自分自身を自覚しながらもしかも結局どうにもならない自分、――それを感じただけでも人は容易に自殺を思わないであろうか。
自分自身が今そこでさいなまれつつある不幸な現実の世界を熟視しながら太田は思うのであった。この厳《きび》しい、激しい、冷酷な、人間を手玉にとって翻弄《ほんろう》するところのものが今日の現実というもののほんとうの姿なのだ。そしてそういう盲目的な意志を貫ぬこうとして荒れ狂う現実を、人間の打ち立てた一定の法則の下にしっかと組み伏せようとする、それこそが共産主義者の持つ大きな任務ではなかったか。そして、自分もまた、そのために闘って来たのではなかったか。――そうは一応頭のなかで思いながら、彼の本心はいつかその任務を果すための闘争を回避し、苦しい現実の中から、ただひたすらに逃げ出すことばかりを考えているのであった。彼は積極的に生きようという欲望にも燃えず、すべての事柄に興味を失い、ただただ現実を嫌悪し、空々|寞々《ばくばく》たる隠者のような生活を夢のように頭のなかにえがいて、ぼんやり一日をくらすようになった。それは、結局はやはり病にむしばまれた彼の生気を失った肉体が原因であったのであろうか。――だが、時々は過去において彼をとらえた情熱が、再び暴風のようにその身裡《みうち》をかけ巡ることがあった。太田は拳を固め、上気した熱い頬を感じながら、暗い独房のなかで若々しく興奮した。しかし次の瞬間にはすぐに
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