「だが、それが何になる、死にかかっているお前にとって!」という意地のわるい囁《ささや》きがきこえ、それは烈《はげ》しい毒素のように一切の情熱をほろぼし、彼は再び冷たい死灰のような心に復るのであった。
太田がそうした状態にある時に、一方彼が日々眼の前に見るかの癩病人たちは、身体がもう半ば腐っておりながら、なんとその生活力の壮《さか》んなこと! 食欲は人の数倍も旺盛《おうせい》で、そのためにしばしば与えられた食物の争奪のためにつかみ合いが始まるほどであり――また性欲もおさえがたく強いらしく、夏のある夕べ、かの雑居房の四人がひとしきり猥《みだ》らな話に興じたあげく、そのうちの一人が、いきなり四ツんばいになって動物のある時期の姿態を真似ながら、げらげらと笑い出したのを見た時には、太田は思わず、ああ、と声をあげ、人間の動物的な、盲目的な生の衝動の強さに打たれ、やがてはそれを憎み――生きるということの浅ましさに戦慄《せんりつ》したのであった。
おなじ夏のある暁方、肺病の病舎では、三年越し患《わずら》った六十近い老人が死んだ。死んで死体を運び出し、寝台を見た時、誰も世話するものもなかったその老人の寝台の畳はすでに半ば腐り、敷布団《しきぶとん》と畳の間には白いかびが生《は》え、布団には糞がついてそれがカラカラにひからびていた。――そして同居人である同じ病人たちは、この死に行く老人の枕もとでこの老人に運ばれる水飴の争奪に余念もなかったのである。
何という浅ましい人生の姿であろう。
太田は慰めのない、暗い気持で毎日を暮した。病気が原因する肉体の苦痛とは別に、このままで進んだならばいつしか生きることをも苦痛と感ずるような日が、やがて来るだろうと思われた。この予感に間違いはないのだ。その時のことを思うと彼の心はふるえた。――人間はしばしば思いもかけぬことに遭遇し、何か運命的なものをさえ感ずることがあるものである。太田がこの病舎生活のなかにあって、ゆくりなくも昔の同志、岡田良造に逢ったのは、ちょうど、彼がこの泥沼のような境地におちこみ、そこからの出口を求めて、のた打ちまわっている時であった。
6
うとうとと眠りかけている耳もとに、遠くの監房の扉を開く音が聞える。――人の足音に何か物を運び入れるような物音もまじっているようだ。全身が何とはなしに熱っぽく、一日のうちの大部分の時間を寝てくらすことの多くなった太田は、半ば夢のなかで、遠く離れたその物音を聞き、どうもあれは一房らしいが、今までずっと空房であったあの雑居房に誰か新らしい患者でも入るのであろうか、などとぼんやり考えていた。
「太田さん、また新入りですよ。一房です」興奮をおし殺したような村井の声がその時きこえて来た。単調な毎日を送っているここの病人たちにとっては、新らしい患者の入ってくるということは、何にも増して大きな刺戟を与える事実であった。――だからその翌日になって、朝の運動時間が始まった時、太田は待ちかねて興味に眼を輝やかせながらその新入りの患者の姿を見たのである。そしてその男の姿をちらりと垣間《かいま》見た瞬間に、彼はおもわずハッと思い、軽い胸のときめきをさえ感じてそこに立ちつくしてしまったのであった。うららかな秋の一日で病舎の庭には囚人たちの作った草花の数々が咲き乱れていた。その花園の間を縫うて作られた道が運動の時の歩行にあてられているのだが、その歩行者の姿を監房の中からつかまえようとすると、廊下のガラス戸が日光に光ってよくは見えなかった。その上、監房の扉にはめられたガラスは小さいので、視野が狭く、歩行者の姿がその視界に入ったかと思うとすぐに消えてしまうのである。――そういう状態の下に、しばらく扉の前に立っていて、その新入りの男の姿を眼に捕えた瞬間に太田はわれ知らず、おやと思ったのである。
その男は言うまでもなく癩病患者であった。しかも外観から察したところ、病勢は、もうかなり進んでいる模様である。まだ若い男らしいのだ。病気のために変った相貌から年のころははっきりわからないが、その手のふり方や足の運び方には若々しいものが感ぜられるのである。顔はほとんど全面紫色に腫れあがり、その腫れは、頸筋《くびすじ》にまで及んでいた。頭髪はもう大分うすくなり、眉毛も遠くからは見えがたいほどである。さほど瘠せてはおらず、骨組みの逞《たく》ましい大きな男である。
その男の運動の間じゅう、扉の前に立ちつくしてまたたきもせず、男が監房へ帰ってからも胸騒ぎの容易に消ゆることのなかった太田は、その日から異常な注意をもってその男の一挙一動を観察するようになった。――太田は確かにその男の顔に見おぼえがあったのだ。その顔を見るごとに心の奥底をゆすぶる何ものかが感ぜられるのであるが、ただそれが何である
前へ
次へ
全20ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島木 健作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング