を持って入る姿が見られた。「ああ、飴をなめるようじゃもう長くないな」ほかの病人たちはそれを見ながらひそひそと話し合うのだ。熱気に室内がむれて息もたえだえに思われる土用の夜更《よふ》けなどに、けたたましく人を呼ぶ声がきこえ、その声に起き上って窓から見ると、白衣の人が長い廊下を急ぎ足に歩いて行くのが見える。そのような暁方には必らず死人があった。重病人が二人ある時には、一方が死ねば間もなく他の一方も死ぬのがつねであった。牢死ということは外への聞えもあまりよくはない、それで役所では病人の引取人に危篤の電報を打つのであったが、迎いに来るものは十人のうちに一人もなかった。たとえ引取りに来るものがあったとしても、大抵は途中の自動車の中で命をおとすのである。――牢死人の死体は荷物のように扱われ、鼻や、口や、肛門《こうもん》やには綿がつめられ、箱に入れられて町の病院に運ばれ、そこで解剖されるのである。
暑気に中《あ》てられた肺病患者が一様に食欲を失ってくると、庭の片隅のゴミ箱には残飯が山のように溜り、それがまたすぐに腐って堪えがたい悪臭を放った。ちょっと側を通っても蝿《はえ》の大群が物すごい音を立てて飛び立った。「肺病のたれた糞《くそ》や食い残しじゃ肥しにもなりゃしねえ」雑役夫がブツブツいいながらその後始末をするのだ。その残飯の山をまた、かの雑居房の癩病人たちが横目で見て、舌なめずりしながら言うのである。「へへッ、肺病の罰《ばち》あたりめが、結構ないただきものを残して捨ててけつかる。十等めし一本を食い余すなんて、なんという甲斐性《かいしょう》なしだ!」それから彼らは、飯の配分時間になると、きまって運搬夫をつかまえて、肺病はあんなに飯を残すんだから、その飯を少し削ってこっちへ廻してくれ、と執拗に交渉するのであった。時たま肺病のなかに一人二人、昼めしなど欲しくないというものが出来、さすがに可哀《かわい》そうに思ってそれを彼らの方へ廻してやると、満面に諂《へつら》い笑いを浮べて引ったくるようにして取り合い、そういう時には何ほど嬉《うれ》しいのであろうか、病舎には食事時間の制限がないのをいいことにして、ものの一時間以上もかかってその飯を惜しみ借しみ食うのである。ひとしきり四人の間にその分配について争いが続いたのち、静かになった監房の窓ごしに、ぺちゃぺちゃという彼ら癩病人たちの舌なめずりの音を聞く時には、そぞろに寒け立つ思いがするのであった。――彼らは少しも変らないように見えたが、しかし仔細に見ると、やはり冬から春、春から夏にかけて、わずかながら目に見えるほどの変化はその外貌《がいぼう》に現われているのである。夏中は窓を開け放していても、この病気特有の一種の動物的悪臭が房内にこもり、それは外から来るものには堪えがたく思われるほどのもので、担当の老看守すら扉をあけることを嫌《きら》って運動にも出さずに放っておくことが多かった。そうすると彼らは不平のあまり足を踏みならし、一種の奇声を発してわめき立てるのであった。
5
夜なかに太田は眼をさました。
もう何時だろう、少しは眠ったようだが、と思いながら頭の上に垂《た》れている電燈を見ると、この物静かな夜の監房の中にあって、ほんの心持だけではあるがそれが揺れているようにおもわれる。じっと見ると、夏の夜の驚くほどに大きな白い蛾《が》が電燈の紐《ひも》にへばりついているのだ。何とはなしに無気味さを覚えて寝返りを打つとたんに、ああ、またあれ[#「あれ」に傍点]が来る、という予感に襲われて太田はすっかり青ざめ、恐怖のために四肢《しし》がわなわなとふるえてくるのであった。彼は半身を起してじっとうずくまったまま心を鎮《しず》めて動かずにいた。するとはたしてあれ[#「あれ」に傍点]が来た。どっどっどっと遠いところからつなみでも押しよせて来るような音が身体の奥にきこえ、それがだんだん近く大きくなり、やがて心臓が破れんばかりの乱調子で狂いはじめるのだ。身体じゅうの脈管がそれに応じて一時に鬨《とき》の声をあげはじめ、血が逆流して頭のなかをぐるぐるかけ巡るのがきこえてくる。歯を食いしばってじっと堪えているうちに眼の前がぼ―っと暗くなり、意識が次第に痺れて行くのが自分にもわかるのである。――しばらくしてほっと眼の覚《さ》めるような心持で我に帰った時には、激しい心臓の狂い方はよほど治まっていたが、平静になって行くにつれて、今度はなんともいえない寂しさと漠然とした不安と、このまま気が狂うのではあるまいかという強迫観念におそわれ、太田は一刻もじっとしてはおれず大声に叫び出したいほどの気持になって一気に寝台をすべり下り、荒々しく監房のなかを歩きはじめるのであった。手と足は元気に打ちふりつつ、しかも泣き出しそうな顔をしてうつろな
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