が出ましてね。手先や足先が痺《しび》れて感覚がなくなって来たことに自分で気づいたころから、病気はどんどん進んで来ましたよ。もっとも自覚がないだけでよほど前から少しずつ悪くはなっていたんでしょうが。人にいわれて気がついて見ると、なるほど親指のつけ根のところの肉、――手の甲の方のです、その肉なんかずっと瘠せていますしね。第一子供の時の写真から見ると、二十ごろの写真はまるっきり人相が変っています。子供の時は、ほんとうにかわいい顔でしたが」
「誤診ということもあるでしょうが、医者は詳しく調べたんですか」
「ええ、手足が痺れるぐらいのうちは、私もまだ誤診であってくれればいいとそればかり願っていましたが、それから顔が急に腫れはじめた時にもまだ望みは失いませんでしたが……しかし、今となってはもう駄目《だめ》です、今は……、太田さん、あなたも御覧になったでしょう、え、御覧になったでしょうね、そしてさぞ驚かれたことでしょう、眼が……、眼がもうひっくりかえって来たのです。赤眼になって来たのです。ちょうど子供が赤んべえをしている時のような眼です。それからは私ももう諦めています。こわい病気ですね、こいつは。何しろ身体が生きながら腐って行くんですからね。どうもこいつには二通りあるようです。あの四人組の一人のおとっつぁん、あの人のように肉がこけて乾《ひ》からびて行くのと、それはまだいいが、ほんとに文字どおり腐って行く奴とです。そしてどうもわたしのはそれらしいのです。それでいて身体には別になに一つわるいところはないのです。胃などはかえって丈夫になって、人一倍よけいに食うし……、餓鬼です、全くの餓鬼です。業病ですね。何という因果なこったか……」
急迫した調子で言って来たかと思うと、バッタリと言葉がとだえた。どうやら泣いているらしい。いい加減な慰めの言葉などは軽薄でかけられもせず、いいようのない心の惑乱を感じて太田はそこに立ちつくしていた。ちょうどその時靴音がきこえ、その男の監房の前に来て立ちどまり、戸を開《あ》けて、面会だ、と告げたのである。
男は出て行った。どこで面会をするのであろうか。気をつけて見ると、この病舎には別に面会所とてないのである。庭の片隅のなるべく人目にかからない所ですますらしいのである。面会に来たのは杖《つえ》をつき、腰の半ば曲った老婆であった。黄色い日の弱々しく流れた庭の一隅に、影法師をおとして二人は向い合って立っている。老婆はハンケチで眼をおさえながら何かくどくどとくりかえしているようだ。やがてものの十五分も経つと、立会いの看守は時計を出して見、二人の間をへだて、老婆を連れて向うへ立ち去って行った。男は立って、壁のかげに隠れるその後ろ姿を見送っていたが、やがて担当にうながされて帰って来た。
「太田さん、太田さん」監房へ入るとすぐに男はおろおろ声でいうのであった。「ばばアはね、うちのばばアはたとえからだが腐っても死なないで出て来いというんです。それまではばばアも生きている、死ぬ時には一しょに死ぬから短気な真似《まね》はするなって、くり返しくり返しばばアはいうんです……」
それから今度は声を放って彼は泣き出したのである。――とぎれとぎれの話の間に、太田は男の名を村井源吉といい、犯罪は殺人未遂らしく、五年の刑期だということだけを知ることができた。あなたの事件は何です、と遠慮がちに聞いてみると、「つまらない女のことでしてね、つい刃傷沙汰《にんじょうざた》になってしまったのです」そういったままぷっつりと口をつぐんで、自分の過去の経歴と事件の内容については何事も語らなかった。
「ねえ、太田さん、わたしは諦めようったって諦められないんだ。わたしはまだ二十五になったばかりです。そして社会では今まで何一つ面白い目は見ていないんです。今度出たら、今度シャバに出たらと、そればっかり考えていたら、そのとたんにこんな業病にかかってしまって……。私はばばアのいうとおり、なんとかして命だけは持って出て、出たら三日でも四日でもいい、思いっきりしたい放題をやって、無茶苦茶をやって、それがすんだら街《まち》のまん中で電車にでもからだをブッつけて死んでやるつもりです。嘘じゃありません、私はほんとうにそれをやりますよ」
全く心からそう思いつめているのであろう、涙でうるんだ声で話すその言葉には、じかに聞き手の胸に迫ってくるものがあって、太田は心の寒くなるのを感じ、声もなくいつまでも戸の前に立っていた。
4
冬がすぎ、その年も明けて春となり、いつかまた夏が巡って来た。
肺病患者の病室では病人がバタバタと倒れて行った。今まで運動にも出ていたものがバッタリと出なくなり、ずっと寝込んでしまうようになると、その監房には看病夫が割箸に水飴《みずあめ》をまきつけたの
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