二枚しかなかった布団の一枚を、寒くなったので岡田に貸したその翌日だったので、自分の柏餅の寝姿を見て、案外気立ての柔《やさ》しそうな岡田のことゆえ、気の毒がって他所《よそ》へ移ったのかも知れない、などとも太田には考えられるのであった。心がかりなので二、三日してから中村に逢って尋ねると、彼はすっかり合点《がてん》して、「いや、いいんだ、今日あたり君に逢って話そうかと思っていたところだよ。奴も落ち着くところへ落ち着いたらしいんだ。長々ありがとう」というのであった。――一九二×年十一月、日本の党はようやくその巨大な姿を現わしかけ、大きな決意を抱いて帰った山本正雄こと岡田良造は、その重要な部署に着くために姿をかくしたのである。
ちょうどそれと前後して太田は大阪を去り、地方の農村へ行って働くことになった。同じ年の春、この国を襲った金融恐慌の諸影響は、ようやくするどい矛盾を農村にもたらしつつあったのである。太田はいくつかの大小の争議を指導しやがて正式に(原文二字欠)となった。彼は大阪に存在すると思われる上部機関に対して絶えず意見を述べ、複雑で困難な農民運動の指導を仰いだ。而してそれに対する返書を受け取るたびごとに彼はいつも舌を捲《ま》いておどろいたのである。なんという精鋭な理論と、その理論の心憎いまでの実践との融合であろう! 彼が肝胆を砕いて錬《ね》り上げ、もはや間然するところなしとまで考えて提出する意見が、根本的にくつがえされて返される時など、自信の強かった太田は怫然《ふつぜん》として忿懣《ふんまん》に近いものすら感じた。しかし熟考してみればどんな場合にも相手の意見は正しく、彼はついには相手に比べて自分の能力のあまりにも貧しいことを悲しく思ったほどであった。それと同時に彼は思わず快心の笑みをもらしたのである。なんという素晴らしい奴が日本にも出て来たもんだ! それから太田は、今掃除したばかりと思うのに、もう煤煙《ばいえん》がどこからか入って来て障子の桟《さん》などを汚《よご》す大阪の町々のことを考え、それらの町のどこか奥ふかく脈々と動いているであろう不屈の意志を感じ――すると、腹の真の奥底から勇気がよみがえって来るのであった。この太田の意見書に対する返書の直接の筆者が岡田良造であったことを、捕われた後に、太田は取調べの間に知ったのである。
太田の印象に残っている岡田の面貌はそ
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