水道さえ引かれているのである。試みに栓《せん》をひねってみると水は音を立てて勢いよくほとばしり出た。窓は大きく取ってあって寝台の上に坐りながらなお外が見通されるくらいであった。太田が今日まで足かけ三年の間、いくつかその住いを変えて来た独房のうちこんなに綺麗《きれい》で整いすぎる感じを与えた所はかつてどこにもなかった。それは彼を喜ばせるよりもむしろ狼狽《ろうばい》させたのであった。俺は一体どこへ連れて来られたのであろう、ここは一体どこなのだ?
あたりは静かであった。他の監房には人間がいないのであろうか、物音一つしないのである。それにさっきの看守が立ち去ってからほぼ三十分にもなるであろうが、巡回の役人の靴音も聞えない。いつも来るべきものが来ないと言うことは、この場合、自由を感じさせるよりもむしろ不安を感じさせるのであった。
腰をかけていた寝台から立ち上って、太田は再び戸口に立ってみた。心細さがしんから骨身に浸《し》みとおってじっとしてはいられない心持である。扉にもガラスがはめてあって、今暮れかかろうとする庭土を低く這って、冷たい靄《もや》が流れているのが見えるのである。
「………………」
ふと彼は人間のけはいを感じてぎょっとした。二つおいて隣りの監房は広い雑居房で、半分以上も前へせり出しているために、しかもその監房には大きく窓が取ってあるために、その内部の一部分がこっちからは見えるのであった。廊下の天井に高くともった弱い電気の光りに眼を定めてじっと見ると、窓によって大きな男がつっ立っているのだ。瞬《またた》きもせず眼を据《す》えてこっちを見ているのだが、男の顔は恐ろしく平べったくゆがんで見えた。何とはなしに冷たい氷のようなものが太田の背筋を走った。その男の立っている姿を見ただけで、何か底意地のわるい漠然《ばくぜん》たる敵意が向うに感ぜられるのだが、太田は勇気を出して話しかけてみたのであった。
「今晩は」
それにはさらに答えようともせず、少し間をおいてから、男はぶっきら棒に言い出したのである。
「あんた、ハイかライかね?」
その意味は太田には解しかねた。
「あんた、病気でここへ来なすったんだろう。なんの病気かというのさ」
「ああ、そうか。僕は肺が悪いんだろうと思うんだが」
「ああ、肺病か」
突っぱねるように言って、それからペッとつばを吐く音がきこえた。
「あん
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