に一年も寝ついた病人の肉体を感じたのである。まばらひげの伸びた顎《あご》を撫《な》でながら、彼はしみじみと自分の顔が見たいと思った。ガラス戸に這《は》い寄って映して見たが光るばかりで見えなかった。やがて尿意をもよおしたので静かに寝台をすべり下り、久しぶりに普通の便器に用を足したが、その便器のなかに澱《よど》んだ水かげに、彼ははじめてやつれた自分の顔を映して見ることができたのであった。
八日目の朝に看病夫が来て、彼の喀痰《かくたん》を採って行った。
それからさらに二日|経《た》った日の夕方、すでに夕飯を終えてからあわただしく病室の扉《とびら》が開かれ、先に立った看守が太田に外へ出ることを命じたのである。そして許された一切の持物を持って出ることをつけ加えた。夕飯後の外出ということはほとんどないことである。彼は不審そうにつっ立って看守の顔を見た。
「転房だ、急いで」
看守は簡単に言ったままずんずん先に立って歩いて行く。太田は編笠《あみがさ》を少しアミダにかぶってまだふらふらする足を踏みしめながらその後に従ったが、――そうしてやがて来てしまったここの一廓は、これはまたなんという陰気に静まりかえった所であろう。一体に静かに沈んでいるのはここの建物の全体がそういう感じなのだが、その中にあってすらこんなところがあるかと思われるような、特にぽつんと切り離されたような一廓なのである。なるほど刑務所の内部というものは、行けども行けども尽きることなく、思いがけない所に思いがけないものが伏せてある(原文三字欠)にも似ているとたしかにここへ来ては思い当るようなところであった。もう秋に入って日も短かくなったこととて、すでにうっすらと夕闇《ゆうやみ》は迫り、うす暗い電気がそこの廊下にはともっていた。建物は細長い二棟《ふたむね》で廊下をもって互いに通ずるようになっている。不自然に真白く塗った外壁がかえってここでは無気味な感じを与えているのである。この二棟のうちの南側の建物の一番端の独房に太田は入れられた。何か聞いてみなければ心がすまないような気持で、ガチャリと鍵の音のした戸口に急いで戻って見た時には、もうコトコトと靴音が長い廊下の向うに消えかけていた。
房内はきちんと整頓《せいとん》されていてきれいであった。入って右側には木製の寝台があり、便所はその一隅に別に設けてあり、流しは石でたたんで
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