癩
島木健作
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)節約《しまつ》
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)バタ/\
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1
新しく連れて來られたこの町の丘の上の刑務所に、太田は服役後はじめての眞夏を迎へたのであつた。暑さ寒さも肌に穩やかで町全體がどこか眠つてでも居るかの樣な、瀬戸内海に面したある小都市の刑務所から、何か役所の都合ででもあつたのであらう、慌ただしく只ひとりこちらへ送られて來たのは七月にはいると間もなくの事であつた。太田は柿色の囚衣を青い囚衣に着替へると、小さな連絡船に乘つて、翠巒のおのづから溶けて流れ出たかと思はれる樣な夏の朝の瀬戸内海を渡り、それから汽車で半日も搖られて東海道を走つた。さうして、大都市に近いこの町の、高い丘の上にある、新築後間もない刑務所に着いたのはもうその日の夕方近くであつた。廣大な建物の中をぐるぐると引きまはされ、やがて與へられた獨房のなかに落着いた時には、しばらくはぐつたりとして身動きもできないほどであつた。久しぶりに接した外界の激しい刺戟と、慣れない汽車の旅に心身ともに疲れはててゐたのである。それから三日間ばかりといふもの續けて彼は不眠のために苦しんだ。一つは居所の變つたせいもあつたであらう。しかし、晝も夜も自分の坐つてゐる監房がまだ汽車の中ででもあるかのやうに、ぐるぐるとまはつて感ぜられ、思ひがけなく見る事の出來た東海道の風物や、汽車の中で見た社會の人間のとりどりの姿態などが目先にちらついて離れがたいのであつた。ほとんど何年ぶりかで食つた汽車辨當の味も、今も尚舌なめずりせずには居られない旨さで思ひ出された。彼はそれをS市をすぎて間もなくある小驛に汽車が着いた時に與へられ、汽車中の衆人の環視のなかでがつがつとした思ひで貪り食つたのである。――しかし、一週間を過ぎた頃にはこれらのすべての記憶もやがて意識の底ふかく沈んで行き、灰いろの單調な生活が再び現實のものとして歸つて來、それと共に新しく連れて來られた自分の周圍をしみじみと眺めまはして見る心の落着きをも彼は取り戻したのであつた。
獨房の窓は西に向つて展いてゐた。
晝飯を終へる頃から、日は高い鐵格子の窓を通して流れ込み、コンクリートの壁をじりじりと灼いた。午後の二時三時頃には、日は丁度室内の中央に坐つてゐる人間の身體にまともにあたり、ゆるやかな弧をゑがきながら次第に靜かに移つて、西空が赤く燒くる頃ほひに漸く弱々しい光りを他の側の壁に投げかけるのであつた。こゝの建物は總體が赤煉瓦とコンクリートとだけで組み立てられてゐたから、夜は夜で、晝のうち太陽の光りに灼け切つた石の熱が室内にこもり、夜ぢゆうその熱は發散しきることなく、曉方わづかに心持ち冷えるかと思はれるだけであつた。反對の側の壁には通風口がないので少しの風も鐵格子の窓からははいらないのである。太田は夜なかに何度となく眼をさました。そして起き上ると藥鑵の口から生ぬるい水をごくごくと音をさせて呑んだ。その水も洗面用の給水を晝の間に節約《しまつ》しておかねばならないのであつた。呑んだ水はすぐにねつとりとした脂汗になつて皮膚面に滲み出た。曉方の少し冷えを感ずる頃、手を肌にあてて見ると鹽分でざらざらしてゐた。――冬ぢうカサカサにひからび、凍傷のために紫いろに腫れて肉さへ裂けて見えた手足が、黒いしみ[#「しみ」に傍点]を殘したまゝもとどほりになつて、脂肪がうつすらと皮膚にのつて、若々しい色艶を見せたかと思はれたのもほんの束の間の事であつた。今ははげしい汗疣《あせも》が、背から胸、胸から太股と全身にかけて皮膚を犯してゐた。汗をぬぐふために絶えず堅い綿布でごしごし肌をこするので強靱さを失つた太田の皮膚はすぐに赤くただれ、膿を持ち、惡性の皮膚病のやうな外觀をさへ示しはじめたのである。――監房内の温度はおそらく百度を越え、それと同時に房内の一隅の排泄物が醗酵し切つて、饐《す》えたやうな汗の臭ひにまじり合つてムツとした惡臭を放つ時など、太田は時折封筒を張る作業の手をとゞめ、一體この廣大な建物の中には自分と同じやうなどれほど多くの血氣壯んな男たちが、この惡臭と熱氣のなかに生きたその肉體を腐らせつゝあるのだらうか、などと考へながら思はず胸をついて出る吐息とともに空を眺めやると、小さな鐵格子の窓に限られたはるかな空は依然白い焔のやうな日光に汎濫して、視力の弱つた眼には堪へがたいまでにきらめいてゐるのであつた。
ほぼ一《ひと》月もするうちに、單調なこの世界の生活の中にあつて、太田は、いつしか音の世界を樂しむことを知るやうになつた。
彼の住む二階の六十五房は長い廊下のほぼ中央にあたつてゐた。この建物の全體の構造から來るのであらうか、この建物の一廓に起るすべての物音は自然に中央に向つて集まるやうに感ぜられるのであつた。その内部が幾つにも仕切られた、巨大な一つの箱のやうな感じのするこの建物の一隅に物音が起ると、それは四邊の壁にあたつて無氣味にも思はれる反響をおこし、建物の中央部にその音は流れて、やがて消えて行くのである。――廊下を通る男たちの草履のすれる音、二三人ひそひそと人目をぬすんで話しつゝ行く氣はひ、運搬車の車のきしむ響き、三度々々の飯時に食器を投げる音、しのびやかに歩く見まはり役人の靴音と佩劒の音。――すべてそれらの物音を、太田は飽くことなく樂しんだ。雜然たるそれらの物音もこゝではある一つの諧調をなして流れて來るのである。人間同士、話をするといふことが、堅く禁ぜられてゐる世界であつた。灰色の壁と鐵格子の窓を通して見る空の色と、朝晩目にうつるものとてはただそれだけであつた。だがそのなかにあつて、なほ自然にかもし出される音の世界はそれでもいくらか複雜な音《ね》いろを持つてゐたといひうるであらう。それも一つには、あたりが極端な靜けさを保つてゐるために、ほんのわづかな物音も物珍らしいリズムをさへ伴つて聞かれるのである。――この建物の軒や横にわたした樋の隅などにはたくさんの雀が巣くつてゐた。春先、多くの卵がかへり、やうやく飛べるやうになり、夏の盛りにはそれはおびたゞしい數にふえてゐた。曉方空の白む頃ほひと、夕方夕燒けが眞赤に燃える頃ほひには、それらのおびたゞしい雀の群が鐵格子の窓とその窓にまでとどく桐の葉蔭に群れて一せいに鳴きはやすのである。その奧底に赤々と燃えてゐる(原文五字缺)を包んで笑ふこともない、きびしい冷酷さをもつて固くとざされた心にも、この愛すべき小鳥の聲は、時としては何かほのぼのとした温かいものを感じさせるのあつた。それは多くは幼時の遠い記憶に結びついてゐるやうである。――時々まだ飛べない雀の子が巣から足をすべらして樋の下に落ちこむことがあつた。親雀が狂氣のやうにその近くを飛びまはつてゐる時、青い囚衣を着て胸に白布をまいた雜役夫たちが、樋の中に竹の棒をつゝ込みながら何か大聲に叫び立ててゐる。それは高い窓からも折々うかがはれる風景であつたが、ほんの一瞬間ではあるが、それは自分の現在の境遇を忘れさせてくれるに足るものであつた。――五年といふ月日は長いが、すべてこれらの音の世界が殘されてゐる限りは、俺も發狂することもないだらう、などと太田は時折思つてみるのであつた。
だが、何にも増して彼が心をひかれ、そしてそれのみが唯一の力とも慰めともなつたところのものは、やはり人間の聲であり、同志たちの聲であつた。
その聲はどんな雨の日にも風の日にも、これだけは缺くることなく正確に一日に朝晩の二囘は聞くことができた。朝、起床の笛が鳴りわたる。起きて顏を洗ひ終ると、すぐに點檢の聲がかゝる。戸に向つて瘠せて骨ばつた膝を揃へて正坐する時には、忘れてはならぬ屈辱の思ひが今更のやうにひしひしと身うちに徹して感ぜられ、點檢に答へて自分の身に貼りつけられた番號を聲高く呼びあげるのであつた。鬱結し、鬱結して今は堪へがたくなつたものが、一つのはけ口を見出して迸しり出づるそれは聲なのである。人々はこの聲々に潜むすべての感情を、よく汲みつくし得るであらうか。――太田はいつしかその聲々の持つ個性をひとつひとつ聞きわけることができるやうになつた、――一九三×年、この東洋第一の大工業都市にほど近い牢獄の獨房は、太田と同じやうな罪名の下に收容されてゐる人間によつて滿たされてゐたのだ。太田は鍛へ上げられた敏感さをもつて、共犯の名をもつて呼ばれる同志達がこゝでも大抵一つおきの監房にゐることをすぐに悟ることができた。その聲のあるものは若々しい張りを持ち、あるものは太く沈鬱であつた。その聲を通してその聲の主がどこにどうして居るかをも知ることが出來るのであつた。時々かねて聞きおぼえのある聲が消えてなくなることがある。二三日してその聲がまた、少しも變らぬ若々しさをもつて思はざる三階の隅の方からなど聞えてくる時には、ひとりでに湧き上つてくる微笑をどうすることもできないのであつた。だが、一度《ひとたび》消えてつひに二度とは聞かれない聲もあつた。その聲は何處に拉し去られたのであらうか。――朝夕の二度はかうして脈々たる感情がこの箱のやうな建物のあらゆる隅々に波うち、それが一つになつてふくれ上つた。
2
間もなく日が黄いろ味を帶びるやうになり戸まどひした赤とんぼがよく監房内に入つて來ることなどがあつて、漸く秋の近さが感ぜられるやうになつた。さういふある日の午後少し※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つた頃、太田は張り終へた封筒を百枚づつせつせと束にこしらへてゐた。
彼の一日の仕上高、ほぼ三千枚見當にはまだだいぶ開きがあつた。殘暑の激しい日光を全身に受けてせつせと手を運ばせてゐると、彼はにはかに右の胸部がこそばゆくなり、同時に何か一つのかたまりが胸先にこみあげてくるのを感じたのである。何氣なく上體をおこす途端に、そのかたまりはくるくると胸先をかけ巡り、次の瞬間には非常な勢で口の中に迸り出て、滿ち溢れた餘勢で積み重ねた封筒の上に吐き出されたのであつた。
血だ。
ぽつたりと大きな血塊が封筒のまん中に落ち、飛沫がその周圍に霧のやうに飛んだ。それはほとんど咳入ることもなく、滿ち溢れたものが一つのはけ口を見出して流れ出たやうに極めて自然に吐き出された。だが次の瞬間には恐ろしい咳込みがつゞけさまに來た。太田は夢中で側の洗面器に手をやりその中に面をつつこんだ。咳はとめどもなく續いた。その度ごとに血は口に溢れ、洗面器に吐き出された。血は兩方の鼻孔からもこんこんとして溢れ、そのために呼吸が妨げられるとそれが刺戟となつて更に激しく咳入るのであつた。
洗面器から顏をあげて喪心したやうにその中を凝つとのぞき込んだ時には、血はべつとりとその底を一面にうづめてゐた。溜つた血の表面には小さな泡がブツブツとできたりこはれたりしてゐた。一瞬間前までは、自分の生きた肉體を温かに流れてゐたこの液體を、太田は何か不思議な思ひでしばらく見つめてゐた。彼は自分自身が割合に落着いてゐることを感じた。胸はしかし割れるかと思はれるほどに動悸を打つてゐた。顏色はおそらく白つぽく乾いてゐたことであらう。靜かに立上ると報知機をおとし、それからぐつたりと彼は仰向けに寢ころんだ。
靴音がきこえ、やがて彼の監房の前で立止まり、落ちてゐた報知機をあげる音がきこえ、次に二つの眼が小さな覗き窓の向ふに光つた。
「何だ?」
太田は答へないで寢たまゝであつた。
「おい、何の用だ?」光線の關係で内部がよく見えなかつたのであらう、コトコトとノツクする音が聞えたが、やがて焦立たしげにののしる聲がきこえ、次に鍵がガチヤリと鳴り、戸が開いた。
「何だ! 寢そべつてゐる奴があるか、どうしたんだ?」
太田がだまつて枕もとの洗面器を指さすと、彼は
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