なものの影になつて壁一ぱいに廣がつてくる。それはえたいの知れない怪物の影であることが多かつた。恐怖をおさへてぢつとその影に見入つてゐると、やがてそれがぽつかりと二つに割れ、三つにも、四つにも割れて、その一つ一つが今も尚故郷にゐるであらう、老母の顏や兄の顏に變るのである。それと同時に夢からさめたやうに、現實の世界に立ちかへるのがつねであつた。――夜寢てからの夢の中では、自分が過去において長い/\時間の間に經驗して來た色々の出來事を、ほんの一瞬間に走馬燈のやうに見る事が多かつた。さういふ時は自分自身の苦悶の聲に目ざめるのであつた。太田は死の迫り來る影に直面して、思ひの外平氣で居れる自分を不思議に思つた。ものの本などで見る時には、劇的な、浪漫的な響を持つてゐる獄死といふ言葉が、今は冷酷な現實として自分自身に迫りつゝある。今はもう不可抗的な自然力と化した病氣の外に、盤石のやうな重さをもつてのしかゝつてゐる國家權力がある。あゝ、俺もこれで死ぬるのかと思ひながら、今までこゝで死んで行つた多くの病人達の口にした、看病夫の持つて來てくれる水飴のあまさを舌に溶かしつゝ太田の心は案外に平靜であつた。俺たち
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