らも折々うかがはれる風景であつたが、ほんの一瞬間ではあるが、それは自分の現在の境遇を忘れさせてくれるに足るものであつた。――五年といふ月日は長いが、すべてこれらの音の世界が殘されてゐる限りは、俺も發狂することもないだらう、などと太田は時折思つてみるのであつた。
 だが、何にも増して彼が心をひかれ、そしてそれのみが唯一の力とも慰めともなつたところのものは、やはり人間の聲であり、同志たちの聲であつた。
 その聲はどんな雨の日にも風の日にも、これだけは缺くることなく正確に一日に朝晩の二囘は聞くことができた。朝、起床の笛が鳴りわたる。起きて顏を洗ひ終ると、すぐに點檢の聲がかゝる。戸に向つて瘠せて骨ばつた膝を揃へて正坐する時には、忘れてはならぬ屈辱の思ひが今更のやうにひしひしと身うちに徹して感ぜられ、點檢に答へて自分の身に貼りつけられた番號を聲高く呼びあげるのであつた。鬱結し、鬱結して今は堪へがたくなつたものが、一つのはけ口を見出して迸しり出づるそれは聲なのである。人々はこの聲々に潜むすべての感情を、よく汲みつくし得るであらうか。――太田はいつしかその聲々の持つ個性をひとつひとつ聞きわけることが
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