世界の生活の中にあつて、太田は、いつしか音の世界を樂しむことを知るやうになつた。
 彼の住む二階の六十五房は長い廊下のほぼ中央にあたつてゐた。この建物の全體の構造から來るのであらうか、この建物の一廓に起るすべての物音は自然に中央に向つて集まるやうに感ぜられるのであつた。その内部が幾つにも仕切られた、巨大な一つの箱のやうな感じのするこの建物の一隅に物音が起ると、それは四邊の壁にあたつて無氣味にも思はれる反響をおこし、建物の中央部にその音は流れて、やがて消えて行くのである。――廊下を通る男たちの草履のすれる音、二三人ひそひそと人目をぬすんで話しつゝ行く氣はひ、運搬車の車のきしむ響き、三度々々の飯時に食器を投げる音、しのびやかに歩く見まはり役人の靴音と佩劒の音。――すべてそれらの物音を、太田は飽くことなく樂しんだ。雜然たるそれらの物音もこゝではある一つの諧調をなして流れて來るのである。人間同士、話をするといふことが、堅く禁ぜられてゐる世界であつた。灰色の壁と鐵格子の窓を通して見る空の色と、朝晩目にうつるものとてはただそれだけであつた。だがそのなかにあつて、なほ自然にかもし出される音の世界はそ
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