第に大きなものとなり、確信に滿ちてゐた心に動搖の生じ來つたことを自分自ら自覺しはじめ、そのために苦しみはじめた頃から、彼は上述の發作に惱むやうになつたのであつた。
太田の心のなかに漠然と生じ來つた不安と動搖とは一體どんな性質のものであつたらう、彼自身はつきりとその本質をつかみえず、そこに惱みのたねもあつたのだが、動搖といふ言葉を、彼が從來確信をもつて守り來つた思想が、何らかのそれに反對の理論に屈服し崩れかゝつて來た――といふ意味に解するならば、いま、彼の心にきざして來た暗い影といふのはさういふ性質のものではない、といふことだけはいへる。太田の心の動搖は、彼がこゝの病舍で癩病患者および肺病患者のなかにあつて、彼等の日常生活をまざまざと眼の前に見、自分も亦同じ患者の一人としてそこに生活しつゝある間に、夏空に立つ雲の如くに自然にわいて來たものであつた。それはつかまへどころのないしかし理窟ではないところに強さがある、といつた性質のものであつた。――言ふならば太田は冷酷な現實の重壓に打ちひしがれて了つたのだ。共産主義者としての彼はまだ若く、その上にいはばインテリにすぎなかつたから、實際生活の苦
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