感ぜられるやうになつた。さういふある日の午後少し※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つた頃、太田は張り終へた封筒を百枚づつせつせと束にこしらへてゐた。
 彼の一日の仕上高、ほぼ三千枚見當にはまだだいぶ開きがあつた。殘暑の激しい日光を全身に受けてせつせと手を運ばせてゐると、彼はにはかに右の胸部がこそばゆくなり、同時に何か一つのかたまりが胸先にこみあげてくるのを感じたのである。何氣なく上體をおこす途端に、そのかたまりはくるくると胸先をかけ巡り、次の瞬間には非常な勢で口の中に迸り出て、滿ち溢れた餘勢で積み重ねた封筒の上に吐き出されたのであつた。
 血だ。
 ぽつたりと大きな血塊が封筒のまん中に落ち、飛沫がその周圍に霧のやうに飛んだ。それはほとんど咳入ることもなく、滿ち溢れたものが一つのはけ口を見出して流れ出たやうに極めて自然に吐き出された。だが次の瞬間には恐ろしい咳込みがつゞけさまに來た。太田は夢中で側の洗面器に手をやりその中に面をつつこんだ。咳はとめどもなく續いた。その度ごとに血は口に溢れ、洗面器に吐き出された。血は兩方の鼻孔からもこんこんとして溢れ、そのために呼吸が妨げられるとそれが刺戟となつて更に激しく咳入るのであつた。
 洗面器から顏をあげて喪心したやうにその中を凝つとのぞき込んだ時には、血はべつとりとその底を一面にうづめてゐた。溜つた血の表面には小さな泡がブツブツとできたりこはれたりしてゐた。一瞬間前までは、自分の生きた肉體を温かに流れてゐたこの液體を、太田は何か不思議な思ひでしばらく見つめてゐた。彼は自分自身が割合に落着いてゐることを感じた。胸はしかし割れるかと思はれるほどに動悸を打つてゐた。顏色はおそらく白つぽく乾いてゐたことであらう。靜かに立上ると報知機をおとし、それからぐつたりと彼は仰向けに寢ころんだ。
 靴音がきこえ、やがて彼の監房の前で立止まり、落ちてゐた報知機をあげる音がきこえ、次に二つの眼が小さな覗き窓の向ふに光つた。
「何だ?」
 太田は答へないで寢たまゝであつた。
「おい、何の用だ?」光線の關係で内部がよく見えなかつたのであらう、コトコトとノツクする音が聞えたが、やがて焦立たしげにののしる聲がきこえ、次に鍵がガチヤリと鳴り、戸が開いた。
「何だ! 寢そべつてゐる奴があるか、どうしたんだ?」
 太田がだまつて枕もとの洗面器を指さすと、彼は愕然とした面持で凝つとそれに見入つてゐたが、やがてあわててポケツトから半巾を出して口をおほひ、無言のまゝ戸を閉ぢ急ぎ足に立ち去つた。
 やがて醫者が來て簡單な診察をすまし、歩けるか、と問ふのであつた。太田がうなづいて見せると彼は先に立つて歩き出した。監房を出る時ふと眼をやると、洗面器の血潮はすでに夏の日の白い光線のなかに黒々と固まりかけてゐて、古血の臭ひが鼻先に感ぜられた。
 日のなかに出ると眼がくらくらして倒れさうであつた。赤土は熱氣に燃えてその熱はうすい草履をとほしてぢかに足に來た。病舍までは長い道のりであつた。どれもこれも同じやうな幾つかの建物の間を通り、廣い庭を横ぎり、又暗い建物の中に入りそれを突き拔けた。病舍に着くとすぐに病室に入れられ、氷を胸の上にのせて、太田は絶對仰臥の姿勢を取ることになつたのである。
 七日の間、彼は夜も晝もただうつらうつらと眠りつゞけた。その間にも、凝結した古血のかたまりを絶えず吐き續けた。彼は自分の突然落ちこんだ不幸な運命について深く考へて見ようともしなかつた。いや、彼のぶつかつた不幸がまだ餘りに眞近くて彼自身がその中に於て昏迷し、その不幸について考へて見る心の餘裕を取り戻してゐなかつたのであらう。やがて落着きを充分に取り戻すと同時に、どんなみじめな思ひに心が打ち摧かれるであらうか、といふことが意識の奧ふかくかすかに豫想はされるのではあつたが。重湯と梅ぼしばかりで生きた七日ののち、彼は漸く靜かに半身を起して身體のあちらこちらをさすつて見て、この七日の間に一年も寢ついた病人の肉體を感じたのである。まばらひげの伸びた顎を撫でながら、彼はしみじみと自分の顏が見たいと思つた。ガラス戸に這ひ寄つて映して見たが光るばかりで見えなかつた。やがて尿意をもよほしたので靜かに寢臺をすべり下り、久しぶりに普通の便器に用を足したが、その便器のなかに澱んだ水かげに、彼ははじめてやつれた自分の顏を映して見る事ができたのであつた。
 八日目の朝に看病夫が來て、彼の喀痰を採つて行つた。
 それから更に二日經つた日の夕方、すでに夕飯を終へてからあわただしく病室の扉が開かれ、先に立つた看守が太田に外へ出ることを命じたのである。そして許された一切の持物を持つて出る事をつけ加へた。夕飯後の外出といふことは殆んどないことである。彼は不審さうにつゝ立つて看守の顏を見た。

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