轉房だ、急いで。」
看守は簡單に言つたまゝずんずん先に立つて歩いて行く。太田は編笠を少しアミダにかぶつてまだふらふらする足を踏みしめながらその後に從つたが、――さうしてやがて來て了つたこゝの一廓は、これはまたなんといふ陰氣な靜まりかへつた所であらう。一體に靜かに沈んでゐるのはこゝの建物の全體がさういふ感じなのだが、その中にあつてすらこんなところがあるかと思はれるやうな、特にぽつんと切り離されたやうな一廓なのである。成るほど刑務所の内部といふものは、行けども行けども盡きることなく、思ひがけない所に思ひがけないものが伏せてある(原文三字缺)にも似てゐるとたしかに此處へ來ては思ひ當るやうなところであつた。もう秋に入つて日も短かくなつた事とて、すでにうつすらと夕闇は迫り、うす暗い電氣がそこの廊下にはともつてゐた。建物は細長い二棟で廊下をもつて互に通ずるやうになつてゐる。不自然に眞白く塗つた外壁がかへつてこゝでは無氣味な感じを與へてゐるのである。この二棟のうちの南側の建物の一番端の獨房に太田は入れられた。何か聞いて見なければ心がすまないやうな氣持で、ガチヤリと鍵の音のした戸口に急いで戻つて見た時には、もうコトコトと靴音が長い廊下の向ふに消えかけてゐた。
房内はきちんと整頓されてゐてきれいであつた。入つて右側には木製の寢臺があり、便所はその一隅に別に設けてあり、流しは石でたたんで水道さへ引かれてゐるのである。試みに栓をひねつて見ると水は音を立てて勢よくほとばしり出た。窓は大きく取つてあつて寢臺の上に坐りながらなほ外が見通されるくいらゐであつた。太田が今日まで足掛け三年の間、幾つかその住ひを變へて來た獨房のうちこんなに綺麗で整ひすぎる感じを與へた所は曾つてどこにもなかつた。それは彼を喜ばせるよりも狼狽させたのであつた。俺は一體どこへ連れて來られたのであらう、こゝは一體どこなのだ?
あたりは靜かであつた。他の監房には人間が居ないのであらうか、物音一つしないのである。それにさつきの看守が立去つてからほぼ三十分にもなるであらうが、巡囘の役人の靴音も聞えない。いつも來るべきものが來ないと言ふことは、この場合、自由を感じさせるよりもむしろ不安を感じさせるのであつた。
腰をかけてゐた寢臺から立上つて、太田は再び戸口に立つて見た。心細さがしんから骨身に浸みとほつてぢつとしては居られない心持である。扉にもガラスがはめてあつて、今暮れかゝらうとする庭土を低く這つて、冷たい靄が流れてゐるのが見えるのである。
「……………」
ふと彼は人間のけはひを感じてぎよつとした。二つおいて隣りの監房は廣い雜居房で、半分以上も前へせり出してゐるために、しかもその監房には大きく窓が取つてあるために、その内部の一部分がこつちからは見えるのであつた。廊下の天井に高くともつた弱い電氣の光りに眼を定めて凝つと見ると、窓によつて大きな男がつゝ立つてゐるのだ。瞬《またゝ》きもせず眼を据ゑてこつちを見てゐるのだが、男の顏は恐ろしく平べつたくゆがんで見えた。何とはなしに冷たい氷のやうなものが太田の脊筋を走つた。その男の立つてゐる姿を見ただけで、何か底意地のわるい漠然たる敵意が向ふに感ぜられるのだが、太田は勇氣を出して話しかけて見たのであつた。
「今晩は。」
それには更に答へようともせず、少し間をおいてから、男はぶつきら棒に言ひ出したのである。
「あんた、ハイかライかね?」
その意味は太田には解しかねた。
「あんた、病氣でこゝへ來なすつたんだらう。なんの病氣かといふのさ。」
「あゝ、さうか。僕は肺が惡いんだらうと思ふんだが。」
「あゝ、肺病か。」
突つぱねるやうに言つて、それからペツとつばを吐く音がきこえた。
「あんたも病氣ですか、なんの病氣です? そしていつからこゝに來てゐるんです。」
明らかに輕蔑されつき放された心細さに、いつの間にか意氣地なくも相手に媚びた調子でものを言つてゐる自分をさへ感じながら、太田はせき込んで尋ねたのであつた。
「わしは五年ゐるよ。」
「五年?」
「さうさ、一度こゝへ來たからにや、燒かれて灰にならねえ限り出られやしねえ。」
「あんたも病氣なんですか、それでどこが惡いんです?」
男は答へなかつた。くるつと首だけ後に向けて、ぼそぼそと何か話してゐる樣子だつたが、又こつちを向いた。その時氣づいたことだが、彼は別にふところ手をしてゐる風《ふう》にもないのだが、左手の袖がぶらぶらし、袖の中がうつろに見えるのであつた。
「わしの病氣かね。」
「えゝ、」
「わしは、れ・ぷ・ら、さ。」
「え?」
「癩病だよ。」
しやがれた大聲で一と口にズバリと言つてのけて、それから、ざまア見やがれ、おどろいたか、と言はんばかりの調子でヘツヘツヘツとひつつるやうな笑ひ聲を長く引き
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