ながら監房の中に消えて了つた。その笑ひ聲に應じて、今まで靜かであつた監房の中にもわつといふ叫び聲が起り、急に活氣づいたやうな話し聲がつゞいて聞えて來るのであつた。すつかり慘めに打ちひしがれた思ひで太田は自分の寢臺に歸つた。いつか脂汗が額にも脊筋にもべとべととにじんでゐた。わきの下に手をあてて見ると火のやうに熱かつた。二三分、狹い監房の中を行つたり來たりしてゐたが、それから生温い水にひたした手ぬぐひを額にのせてぐつたりと横になり、彼は曉方までとろとろと夢を見ながら眠つた。
3
朝晩吐く痰に赤い色がうすくなり、やがてその色が黒褐色になり、二週間ほど經つて全然色のつかない痰が出るやうになり、天氣のいい日にはぶらぶら運動にも出られるやうになつた頃から、漸く太田にはこの新らしい世界の全貌がわかつて來たのである。こゝへ來た最初の日、雜居房の大男が、「ハイかライか?」と突然尋ねた言葉の意味もわかつた。この隔離病舍の二棟のうち、北側には肺病患者が、南側には癩病患者が收容せられてゐるのであつた。癩病人と棟を同じくしてゐる肺病患者は太田だけで、南側の建物の一番東のはしに只ひとりおかれてゐた。
社會から隔離され忘れられてゐる牢獄のなかにあつて、更に隔離され全く忘れ去られてゐる世界がこゝにあつたのだ。何よりも先づ何か特別な眼をもつて見られ、特別な取扱ひを受けてゐるといふ感じが、新しくこゝへ連れ込まれた囚人の、彼等特有の鋭どくなつてゐる感覺にぴんとこたへるのであつた。十分間おきぐらゐにはきまつて巡囘する筈の役人もこの一廓にはほんのまれにしか姿を見せなかつた。例へ來てもその一端に立つて、全體をぐるりと一と睨みすると、そそくさと急いで立去つてしまふのである。擔當の看守はもう六十に手のとどくやうな老人で、日あたりのいい庭に椅子を持ち出し、半ばは眠つてゐるのであらうか、半眼を見開いていつまでも凝つとしてゐることが多かつた。監房内にはだからどんな反則が行はれつゝあるか、それは想像するに難くはないのである。すべてこれらの取締上の極端なルーズさといふものは、だが、決して病人に對する寛大さから意識して自由を與へてゐる、といふ性質のものではなく、それが彼等に對するさげすみと嫌惡の情とからくる放任に過ぎないといふことは、事毎にあたつての役人たちの言動に現はれるのであつた。用事があつて報知機がおろされても、役人は三十分あるひは一時間の後でなければ姿を見せなかつた。漸く來たかと思へば、監房の一間も向ふに立つて用事を聞くのである。うむ、うむ、とうなづいてはゐるが、しかしその用事が一囘で事足りたといふことは先づないといつていいのである。――餘程後の事ではあるが、太田は教誨師を呼んで書籍の貸與方を願ひ出たことがあつた。監房に備へつけてある書籍といふものは、二三册の佛教書で、しかもそのいづれもが表紙も本文もちぎれた讀むに堪へない程度のものであつたから。教誨師が仔細らしくうなづいて歸つたあとで、掃除夫の仕事をこゝでやつてゐる、同じ病人の三十番が太田に訊くのであつた。――「太田さん教誨師に何を頼みなすつた?」「なに、本を貸してもらはうと思つてね。」「そりや、あなた、無駄なことをしなすつたな。一年に一度、役に立たなくなつた奴を拂下げてよこす外に、肺病やみに貸してくれる本なんかあるもんですか。第一、坊主なんかに頼んで何がしてもらへます? あんたも共産黨ぢやないか。頼むんなら赤裏[#「赤裏」に傍点](典獄のこと)に頼むんですよ、赤裏に。赤裏がまはつて來た時に、かまふこたアない、恐れながらと直願をやるんですよ。」この前科五犯のしたたか者の辛辣な駁言には一言もなかつたが、成程その言葉どほりであつた。頼んだ本はつひに來なかつた。そして二度目に逢つた時、教誨師は忘れたものの如くよそほひ、こつちからいはれて始めて、あゝ、と言ひ、何ぶん私の一存ばかりでも行かぬものですから、と平氣で青い剃あとを見せた顎を撫でまはすのであつた。――讀む本はなく、ある程度の健康は取り戻しても何らの手なぐさみも許されず、終日茫然として暗い監房内に、病める囚人達は發狂の一歩手前を彷徨するのである。
健康な囚人達のこゝの病人に對するさげすみは、役人のそれに輪をかけたものであつた。きまつた雜役夫はあつても何かと口實を作つてめつたに寄りつきはしなかつた。仕方なく掃除だけは病人のうち比較的健康な一人が外に出て掃いたり拭いたりするのである。衣替へなどを請求しても曾つて滿足なものを支給されたためしはなかつた。囚衣から手拭のはしに至るまで、もう他では使用に堪へなくなつたものばかりを、擇りに擇つて持つてくるのである。病人達は、尻が裂けたり、袖のちぎれかけた柿色の囚衣を着てノロノロと歩いた。而してかういふ差別は三度三度の食事にさ
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