へ見られた。味噌汁は食器の半分しかなく飯も思ひなしか少なかつた。病人は常に少ししか食へないものと考へるのは間ちがひだ。病人といふものは食慾にムラがあり、極端に食はなかつたり、極端に食つたりするものなのだ。一度肺病やみの一人が雜役夫をつかまへて不平を鳴らしたが、「何だと! 遊んで只まくらつてゐやがつて生意氣な野郎だ!」聲と共に汁をすくふ柄杓の柄がとんで頭を割られ、そのために若者は三日間ほど寢込んでしまひ、それ以後は蔭でブツブツは言つても大きな聲でいふものはなくなつた。
さげすまれ、そのさげすみが極端になつては言葉に出して言ふまでもなく、何を言つてもソツポを向き、時々ふふんと鼻でわらひ、病人の眼の前で雜役夫と看病夫とが顏を見合して思はせぶりにくすりと笑つて見せたりする、それはいい加減に彼等の尖つた神經をいらいらさせるしぐさであつた。だが、憎まれ、さげすまれる、といふ事は考へやうによつてはまだ我慢の出來ることである。憎まれるといふ場合は勿論、さげすまれるといふ場合でも、まだ彼は相手にとつてはその心を牽くに足りる一つの存在であるのだから。次第にその存在が人々にとつて興味がなくなり、路傍の石のやうに忘れられ、相手にもされなくなるといふことは、生きてゐる人間にとつては我慢のできないことであつた。
こゝの世界で發行されてゐる新聞が時々配られる。それにはいろいろ耳寄りなことが書いてある。所内には新しくラヂオが据ゑつけられ、收容者に聞かせることになつた、圖書閲覽の範圍が擴大された、近いうちに、巡囘活動寫眞が來る、等々。だがそれらはすべてこの一廓の人間にとつては全く無縁の事柄なのである。病人は寢てゐるのが仕事だ、惡い事をしてこゝへ來て、遊んで寢そべつて、しかも毎日高い藥を呑ませてもらつてゐるとは、何と冥利の盡きたことではないか、といふのであつた。――刑務所内の安全週間の無事に終つた祝ひとして、收容者全部に砂糖入りの團子が配られ、この隔離病舍にだけはどうしたものかそれが配られず、後で炊事擔當も病舍の擔當もこゝの事は「忘れて」ゐたのだ、と聞かされた時、とうとう鬱結してゐたものが一人の若者の口から迸り出た。「なに、忘れて居たつて! ようし思ひ出させてやるぞ!」雜居三房にこの二た月寢つきりに寢てゐたひよろひよろした肺病やみの若者がいきなりすつくと立ち上つた。あつけに取られてゐる同居人を尻目にかけて、病み衰へた手に拳を握ると、素手で片つぱしから窓ガラスをぶつこはし始めたのである。恐ろしい大きな音を立ててガラスの破片が飛び散つた。後難を恐れた同居人の一人が制止しようとして後から組みつくと、苦もなくはねとばされてしまつた。物音に驚いた看守と雜役夫とがかけつけて漸く組み伏せるまで、若者は狂氣のやうに荒れ狂つた。後手に縛り上げられた靜脈のふくれ上つた拳にはガラスの破片が突き刺さつて鮮血で染まつてゐた。若者はそのまゝ連れて行かれ、三日間をどこかで暮して歸つて來た。病人だからといつても懲罰はまぬがれ得なかつたのである。ただそれが幾分か輕かつたぐらゐのものであらう。青い顏をして歸つて來、監房へ入るとすぐに寢臺の端に手をさゝへて崩折れたほどであつたが、無口な若者はそれ以來益々無口になり、力のないしかし嚴しい目つきでいつまでもぢつと人の顏を見つめるやうになり、間もなく寒くなる前に死んでしまつた。
さきに言つたやうに、太田は癩病患者と棟を同じくして住んでゐた。
半ば物恐ろしさと半ば好奇心とから、彼はこの異常な病人の生活を注目して見る樣になつた。――雜居房の四人の癩病人は、運動の時間が來るとぞろぞろと廣い庭の日向へ出て行つた。太田はその時始めて、彼らの一々の面貌をはつきり見ることができたのである。色のさめた柿色の囚衣を前のはだけたまゝに着てのろのろと歩み、ぢつとうづくまり、ふと思ひ出したやうに小刻みに走つて見、又は何を思ひ出したのかさもさもおかしくてたまらないといつた風に、ひつつゝたやうな聲を出して笑つたりする、殘暑の烈しい秋の日ざしのなかの、白晝公然たる彼らのたたずまひはすさまじいものの限りであつた。四人のうち二人はまだ若く、一人は壯年で他の一人はすでに五十を越えてゐるかと思はれる老人であつた。若者は二人とも不自然にてかてかと光る顏いろをし、首筋や頬のどちらかには赤い大きな痣のやうな型があつた。人の顏を見る時には、まぶしさうに細い眇目《すがめ》をして見るのであるが、ぢつと注意して觀ると、すでに眼の黒玉はどつちかに片よつてゐるのであつた。二人とも二十歳をすぎて間もあるまいと思はれる年頃であるが、おそらくは少年時代のうちにもうこの病ひが出たものであらう、自分の病氣の恐ろしさについても深くは知らず、世の中もこんなものと輕く思ひなしてゐるらしい風情が、他からもすぐに察せられ、
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