嬉々として笑ひ興じてゐる姿などは、一層見る人の哀れさをそそるのである。――壯年の男は驚くほどに巖丈な骨組みで、幅も厚さも並はづれた胸の上に、眉毛の拔け落ちた猪首の大きな頭が、兩肩の間に無理に押し込んだやうにのしかゝつてゐるのである。飛び出した圓い大きな眼は、腐りかけた魚の眼そのまゝであつた。白眼のなかに赤い血の脈が縱横に走つてゐる。その巖丈な體躯にもかゝはらず、どうしたものか隻手で、殘つた右手も病氣のために骨がまがりかけたまゝで伸びず、箸すらもよくは持てぬらしいのであつた。彼は監房内にあつて、時々何を思ひ出してか、おおつと唸り聲を發して立ち上り、まつ裸になつて手をふり足を上げ、大聲を出しながら體操を始めることがあつた。その食慾は底知れぬほどで、同居人の殘飯は一粒も殘さず平らげ、秋から冬にかけては、しばしば暴力をもつて同居人の食料を強奪するので、若い他の二人は秋風が吹く頃から、又一つ苦勞の種がふえるのであつた。――そしてこの男は、時々思ひ出したやうに、食ひものと女とどつちがええ[#「ええ」に傍点]か、今こゝに何でも好きな食ひものと、女を一晩抱いて寢ることとどつちかをえらべ、といはれたら、お前たちはどつちをとるか、といふ質問を他の三人に向つて發するのである。老人《としより》はにやにや笑つて答へないが、若者の一人が眞面目くさつて考へこみ、多少ためらつた末に「そりや、ごつつおう[#「ごつつおう」に傍点]の方がええ」と答へ、「わしかてその方がええ」ともう一人の若者がそれに相槌を打つのを聞くと、その男は怒つたやうな破れ鐘のやうな聲を出して怒鳴るのであつた。「なんだと! へん、食ひものの方がいいつて! てめえたち、こゝへ來てまでシヤバに居た時みてえに嘘ばつかりつきやがる。食ひものはな、こゝに居たつて大して不自由はしねえんだ、三度々々食へるしな、ケトバシでも、たまにやアンコロでも食へるんだ、……女はさうはいかねえや。てめえたち、そんなことを言ふ口の下から、毎晩ててんこう[#「ててんこう」に傍点]ばかししやがつて、この野郎。」それは感きはまつたやうな聲を出して、ああ、女が欲しいなアと嘆息し、みんながどつと笑つてはやすと、それにはかまはずブツブツと口のなかでいつまでも何事かを呟いてゐるのであつた。
 最後の一人はもう五十を越えた老人でふだんは極く靜かであつた。顏はしなびて小さく眼はしよぼしよぼし、絶えず目脂が流れ出てゐた。兩足の指先の肉は、すつかりコケ落ちて、草履を引つかけることもできず、足を紐で草履の緒に結びつけてゐた。感覺が全然ないのであらう、泥のついた履物のままづかづかと房内に入りこむのは始終のことであつた。まだ若い時田舍の百姓家のゐろりの端で居眠りをし、もうその頃は病氣がかなり重つて足先の感覺を失つてゐたのだが、その足を爐のなかに入れてブスブス燒けるのも知らないでゐたといふ、その時の名殘りの燒傷《やけど》の痕が殘つてゐて、右足の指が五本とも一つにくつついてのつぺりしてゐた。二十歳をすぎると間もなくこの病氣が出、三池の獄に十八年ゐたのを始めとして、今の歳になるまで全生涯の大半を暗いこの世界で過して來たといふこの老人は、もう何事も諦めてゐるのであらうか、言葉少なにいつも笑つてゐるやうな顏であつた。時々、だが、何かの拍子に心の底にわだかまつてゐるものがバクハツすると、憤怒の對象は、いつもきまつて同居のかの壯年の男に向けられ、恐ろしい老人のいつこくさで執拗に爭ひつづけるのであつた。
 この四人が太田の二つおいて隣りの雜居房に居り、最初太田はそれだけで、彼の一つおいて隣りの獨房は空房であるとのみ思つてゐた。それほどその獨房はひつそりとして靜かであつたのである。だが、そこにもじつは人間が一人ゐるのであつた。運動に出はじめて間もなくのある日のこと、太田はその監房の前を通りしなに何氣なく中を覗いてみた。光線の關係で戸外の明るい時には、外から監房内は見えにくいのであつた。ずつと戸の近くまですりよつて房内を見た時に、思ひもかけず寢臺のすぐ端に坊主頭がきちんと坐つて凝つとこちらを見てゐる眼に出つくはし、彼は思はずあツといつてとびしさつた。
 次の日彼が運動から歸つて來た時には、その男は戸の前に立つてゐて、彼が通るのを見ると丁寧に頭を下げて挨拶をしたのであつた。その時太田ははじめてその男の全貌を見たのである。まだ二十代の若い男らしかつた。太田はかつて何かの本で讀んだ記憶のある、この病氣の一つの特徴ともいふべき獅子面《ライオンフエーズ》といふ顏の型《タイプ》を、その男の顏に始めてまざまざと見たのであつた。眼も鼻も口も、すべての顏の道具立てが極端に大きくてしかも平べつたく、人間のものとは思はれないやうな感じを與へるのである。氣の毒なことにはその上に兩方の瞼がもう逆轉
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