世界の生活の中にあつて、太田は、いつしか音の世界を樂しむことを知るやうになつた。
彼の住む二階の六十五房は長い廊下のほぼ中央にあたつてゐた。この建物の全體の構造から來るのであらうか、この建物の一廓に起るすべての物音は自然に中央に向つて集まるやうに感ぜられるのであつた。その内部が幾つにも仕切られた、巨大な一つの箱のやうな感じのするこの建物の一隅に物音が起ると、それは四邊の壁にあたつて無氣味にも思はれる反響をおこし、建物の中央部にその音は流れて、やがて消えて行くのである。――廊下を通る男たちの草履のすれる音、二三人ひそひそと人目をぬすんで話しつゝ行く氣はひ、運搬車の車のきしむ響き、三度々々の飯時に食器を投げる音、しのびやかに歩く見まはり役人の靴音と佩劒の音。――すべてそれらの物音を、太田は飽くことなく樂しんだ。雜然たるそれらの物音もこゝではある一つの諧調をなして流れて來るのである。人間同士、話をするといふことが、堅く禁ぜられてゐる世界であつた。灰色の壁と鐵格子の窓を通して見る空の色と、朝晩目にうつるものとてはただそれだけであつた。だがそのなかにあつて、なほ自然にかもし出される音の世界はそれでもいくらか複雜な音《ね》いろを持つてゐたといひうるであらう。それも一つには、あたりが極端な靜けさを保つてゐるために、ほんのわづかな物音も物珍らしいリズムをさへ伴つて聞かれるのである。――この建物の軒や横にわたした樋の隅などにはたくさんの雀が巣くつてゐた。春先、多くの卵がかへり、やうやく飛べるやうになり、夏の盛りにはそれはおびたゞしい數にふえてゐた。曉方空の白む頃ほひと、夕方夕燒けが眞赤に燃える頃ほひには、それらのおびたゞしい雀の群が鐵格子の窓とその窓にまでとどく桐の葉蔭に群れて一せいに鳴きはやすのである。その奧底に赤々と燃えてゐる(原文五字缺)を包んで笑ふこともない、きびしい冷酷さをもつて固くとざされた心にも、この愛すべき小鳥の聲は、時としては何かほのぼのとした温かいものを感じさせるのあつた。それは多くは幼時の遠い記憶に結びついてゐるやうである。――時々まだ飛べない雀の子が巣から足をすべらして樋の下に落ちこむことがあつた。親雀が狂氣のやうにその近くを飛びまはつてゐる時、青い囚衣を着て胸に白布をまいた雜役夫たちが、樋の中に竹の棒をつゝ込みながら何か大聲に叫び立ててゐる。それは高い窓からも折々うかがはれる風景であつたが、ほんの一瞬間ではあるが、それは自分の現在の境遇を忘れさせてくれるに足るものであつた。――五年といふ月日は長いが、すべてこれらの音の世界が殘されてゐる限りは、俺も發狂することもないだらう、などと太田は時折思つてみるのであつた。
だが、何にも増して彼が心をひかれ、そしてそれのみが唯一の力とも慰めともなつたところのものは、やはり人間の聲であり、同志たちの聲であつた。
その聲はどんな雨の日にも風の日にも、これだけは缺くることなく正確に一日に朝晩の二囘は聞くことができた。朝、起床の笛が鳴りわたる。起きて顏を洗ひ終ると、すぐに點檢の聲がかゝる。戸に向つて瘠せて骨ばつた膝を揃へて正坐する時には、忘れてはならぬ屈辱の思ひが今更のやうにひしひしと身うちに徹して感ぜられ、點檢に答へて自分の身に貼りつけられた番號を聲高く呼びあげるのであつた。鬱結し、鬱結して今は堪へがたくなつたものが、一つのはけ口を見出して迸しり出づるそれは聲なのである。人々はこの聲々に潜むすべての感情を、よく汲みつくし得るであらうか。――太田はいつしかその聲々の持つ個性をひとつひとつ聞きわけることができるやうになつた、――一九三×年、この東洋第一の大工業都市にほど近い牢獄の獨房は、太田と同じやうな罪名の下に收容されてゐる人間によつて滿たされてゐたのだ。太田は鍛へ上げられた敏感さをもつて、共犯の名をもつて呼ばれる同志達がこゝでも大抵一つおきの監房にゐることをすぐに悟ることができた。その聲のあるものは若々しい張りを持ち、あるものは太く沈鬱であつた。その聲を通してその聲の主がどこにどうして居るかをも知ることが出來るのであつた。時々かねて聞きおぼえのある聲が消えてなくなることがある。二三日してその聲がまた、少しも變らぬ若々しさをもつて思はざる三階の隅の方からなど聞えてくる時には、ひとりでに湧き上つてくる微笑をどうすることもできないのであつた。だが、一度《ひとたび》消えてつひに二度とは聞かれない聲もあつた。その聲は何處に拉し去られたのであらうか。――朝夕の二度はかうして脈々たる感情がこの箱のやうな建物のあらゆる隅々に波うち、それが一つになつてふくれ上つた。
2
間もなく日が黄いろ味を帶びるやうになり戸まどひした赤とんぼがよく監房内に入つて來ることなどがあつて、漸く秋の近さが
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