「なに、名前がわかつたつて!」太田は思はず身をのり出して訊いた。「どうしてわかつたの? そして何ていふんです。」
「岡田、岡田良造つていふんですよ。今、葉書を見て來たんです。」
「え、岡田良造だつて。」
村井は葉書を書きに廊下へ出て行き、そこで例の男が村井よりも先に出て書いて行つた葉書を偶然見て來たのであつた。癩病患者の書いたものに對するいとはしさから、書信係の役人が板の上にその葉書を張りつけ、日光消毒をしてゐたのを見て、村井は男の名を知つたのである。「え、岡田良造だつて。」と太田の問ひ返した言葉のなかに、村井は、なみなみならぬ氣はひを感じた。「どうしたんです、太田さん。岡田つて知つてでもゐるんですか。」
「いや……、ただ一寸きいたやうな名なんだが。」
さり氣なく言つて太田は監房の中へ戻つて來た。強い打撃を後頭部に受けた時のやうに目の前がくらくらし、足元もたよりなかつたが、寢臺の端に手をかけて暫くはぢつと立つたまゝ動かずにゐた。それから寢臺の上に横になつて、いつも見慣れてゐる壁のしみを見つめてゐるうちに、漸く心の落着いて行くのを感じ、そこで改めて「岡田良造」といふ名を執拗に心のなかで繰り返し始めたのである。――あのみじめな癩病患者が同志岡田良造の捕はれて後の姿であらうとは!
混亂した頭腦が次第に平靜に歸するにつれて、囘想は太田を五年前の昔につれて行つた。――その頃太田は大阪に居て農民組合の本部の書記をしてゐた。ある日、仕事を終へて歸り仕度をしてゐると、勞働組合の同志の中村がぶらりと訪ねて來た。一寸話がある、と彼はいふのだ。二人は肩を竝べて事務所を出た。ぶらぶらと太田の間借りをしてゐる四貫島の方へ歩きながら、話といふのは外でもないが、と中村は切り出したのであつた。――じつは今度、クウトベから同志がひとり歸つて來たのだ。三年前に日本を發つ時には、ある大きな爭議の直後で相當眼をつけられてゐた男だけに今度歸つても暫くは表面に立つ事ができない。それで當分日本の運動がわかるまで誰かの所へ預けたいが、勞働組合關係の人間のところは少し都合がわるい、君は農民組合だし、それに表面は事務所に寢泊りしてゐる事になつてゐて、四貫島の間借りは一般に知られてゐないから好都合だ。一月ばかり、どうかその男を泊めてやつてくれないか、と中村は話すのであつた。――よろしい、と太田が承知すると、實は六時にそこの喫茶店で逢ふことになつてゐるのだ、とその場所へ彼を連れて行つた。そこには、太田と同年輩の和服姿の男が一人待つて居り、二人を見ると直ににこ/\し出し、僕、山本正雄です、どうぞよろしく、と中村の紹介に答へて太田に挨拶をするのであつた。――話をしてゐるうちにその言葉のなかに、東北の訛りを感じ、質朴なその人柄に深く心を打たれたが、その山本正雄が岡田良造であつた事を太田はずつと後になつて何かの機會に知つたのであつた。
太田は當時、四貫島の、遠縁にあたる親戚の家の部屋を借りて住んでゐた。二階の四疊半と三疊の兩方を彼は使つてゐたので、その四疊半を岡田のために提供したのである。彼等は部屋を隣り合せてゐるといふだけで、別に話をするでもなく、暮した。太田は朝早く家を出、遲くなつて歸る日が多いのでしみじみ話をする機會もなかつたわけである。彼が夜遲く歸つてくると、岡田は寢てゐることもあつたが、光度の弱い電燈を低くおろして何かゴソゴソと書きものをしてゐることもあつた。朝なども彼の起きるよりもまだ早くぷいと家を出て、一日歸らないやうな日もあつた。さういふ生活がほぼ一月もつゞき、めつきりと寒くなつた十一月のある日の朝、岡田は家を出たきり、つひに太田の許へは歸つて來なかつたのである。――何か事情があるのだらうとは思つたが、丁度その日の朝、何のつもりか岡田はまだ寢てゐる太田の部屋の唐紙を開けて見て、何かものを言ひたげにしたが、そこに一枚のうすい布團を、柏餅にして寢てゐる太田の姿を見ると、ほつ、と驚いたやうな聲をあげてそのまゝ戸を閉めてしまつた。――それは丁度、二枚しかなかつた布團の一枚を、寒くなつたので岡田に貸したその翌日だつたので、自分の柏餅の寢姿を見て、案外氣立ての柔《やさ》しさうな岡田の事ゆゑ、氣の毒がつて他所へ移つたのかも知れない、などとも太田には考へられるのであつた。心がかりなので二三日してから中村に逢つて尋ねると、彼はすつかり合點して、「いや、いいんだ、今日あたり君に逢つて話さうかと思つてゐた所だよ。奴も落着く所へ落着いたらしいんだ。長々ありがたう。」といふのであつた。――一九二×年十一月、日本の黨は漸くその巨大な姿を現しかけ、大きな決意を抱いて歸つた山本正雄こと岡田良造は、その重要な部署に着くために姿をかくしたのである。
丁度それと前後して太田は大阪を去り、地方の農村へ行
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