つて働く事になつた。同じ年の春、この國を襲つた金融恐慌の諸影響は、漸くするどい矛盾を農村にもたらしつゝあつたのである。太田は幾つかの大小の爭議を指導しやがて正式に(原文二字缺)となつた。彼は大阪に存在すると思はれる上部機關に對して絶えず意見を述べ、複雜で困難な農民運動の指導を仰いだ。而してそれに對する返事を受取る度毎に彼はいつも舌を捲いておどろいたのである。なんといふ精鋭な理論と、その理論の心憎いまでの實踐との融合であらう! 彼が肝膽を碎いて錬り上げ、もはや間然するところなしとまで考へて提出する意見が、根本的にくつがへされて返される時など、自信の強かつた太田は怫然として忿懣に近いものすら感じた。しかし熟考して見ればどんな場合にも相手の意見は正しく、彼は遂には相手に比べて自分の能力の餘りにも貧しい事を悲しく思つたほどであつた。それと同時に彼は思はず快心の笑をもらしたのである。なんといふ素晴らしい奴が日本にも出て來たもんだ! それから太田は、今掃除したばかりと思ふのに、もう煤煙がどこからか入つて來て障子の棧などを汚す大阪の町々のことを考へ、それらの町のどこか奧ふかく脈々と動いてゐるであらう不屈の意志を感じ――すると、腹の眞の奧底から勇氣がよみがへつて來るのであつた。この太田の意見書に對する返書の直接の筆者が岡田良造であつた事を、捕はれた後に、太田は取調べの間に知つたのである。
太田の印象に殘つてゐる岡田の面貌はさうはつきりしたものではなかつたし、それに岡田は三・一五の檢擧には洩れた一人であつたから、その後彼の捕はれたことを少しも知らなかつた太田が、異樣な癩病患者を見てどこかで見た事がある男と思ひながらも、直に岡田であると認め得なかつたことは當然であつた。かの癩病患者が岡田良造であることを知り、そのおどろきの與へた興奮がやゝ落着いて行くにつれて、岡田は一體いつ捕はれたのであらう、そしていつからあんな病氣にかゝつたのであらう。少しもそんな素ぶりは見せないが、彼は果して自分が太田二郎であることを知つてゐるだらうか、いづれにしても自分は彼に對してどういふ風に話しかけて行つたらいいだらうか、いや、第一、話しかけるべきであらうか、それとも默つて居るべきであらうか、などといふ色々な疑問がそれからそれへと太田の昏迷した頭腦をかけめぐるのであつた。
その翌日、運動時間を待ちかねて、彼は今までにかつてない恐怖の念をもつて運動中のかの男を見たのである。初めは恐る/\偸み見たが、次第に太田の眼はぢつと男の顏に釘づけになつたまゝ動かなかつた。さういはれて見れば成程この癩病患者は岡田なのだ。だが、昔毎日彼と顏をつき合して暮してゐた人間でさへも、さういはれて見て改めて見直さない限りそれと認める事はできないであらう。今、心を落着けてしみじみと見直してみると、廣い拔け上つた額と、眼と眉の迫つた感じに、わづかに昔の岡田の面影が殘つてゐるのみなのである。廣い額は、その昔は、その上に亂れかゝつてゐる長髮と相俟つて卓拔な俊秀な感じを見る人に與へたが、頭髮がうすくまばらになり、眉毛もそれとは見えがたくなつた今は、かへつて逆にひどく間のぬけた感じをさへ與へるのであつた。暗紫色に腫れあがつた顏は無氣味な光澤を持ち、片方の眼は腫れふさがつて細く小さくなつてゐた。色の褪せた囚衣の肩に、いくつにも補綴《つぎ》があててあり、大きな足が尻の切れた草履からはみ出してゐる姿が、みじめな感じを更に増してゐるのであつた。本人は常日頃と變りなく平氣でスタスタと早足に歩き、時々小走りに走つたりして、その短かい運動時間を樂しんでゐるらしいのだが、もう秋もなかばのかなり冷たい風に吹きさらされて、心持ち肩をすぼめ加減にして歩いて行くその後姿を見送つた時、あゝこれがあの岡田の變り果てた姿かと思ひ、それまでぢつと堪へながら凝視してゐたのがもう堪へがたくなつて、窓から離れると寢臺の上に横になり布團をかぶつてなほも暫くこらへてゐたが、やがてぼろ/\と涙がこぼれはじめ、太田はそのまゝ聲を呑んで泣き出して了つたのである。
數へがたい程の幾多の悲慘事が今までに階級的政治犯人の身の上に起つた。ある同志の入獄中に彼の同志であり愛する妻であつた女が子供をすてて、どつちかといへばむしろ敵の階級に屬する男と出奔し、そのためにその同志は手ひどい精神的打撃を受けて遂に沒落して行つた事實を太田はその時まざまざと憶ひ出したのであつたが、さうした苦しみも、或ひは又、親や妻や子など愛する者との獄中での死別の苦しみも――その他一切のどんな苦しみも、岡田の場合に比べては取立てて言ふがほどの事はないのである。それらのほかの凡ての場合には、「時」がやがてはその苦腦を柔げてくれる。何年か先の出獄の時を思へば望みが生じ、心はその豫想だけでも輕く躍
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