にゐる患者達は、新入の患者に對しては異常な注意を拂ひ、罪名は何だらう、何犯だらう、などと色々と取沙汰し合ひ、わけても運動の時間には窓の鐵格子につかまつて新入者の擧動をじろじろと見、それから、ふん、と仔細らしく鼻をならし、どうもあれはどこそこの仕事場で見たやうな男だが、などといつては各々の臆測について又ひとしきり囁きあふのである。新入者の方では又、直にかうした皆の無言の挨拶に答へてにこにこと笑つて見せ、その時誰かゞ一寸でも話しかけようものなら、直にそれに應じて進んでべらべらとしやべり出し、自分の犯罪經歴から病歴までをへんに悲しさうな詠嘆的な調子で語つて聞かせ、相手の好奇心を滿足させるのであつた。――だが今度の新入者の場合は樣子がそれとはまるでちがつてゐた。彼はいつもこゝの世界には不似合な平然たる顏つきをし、運動の時にはもう長い間、何囘も歩き慣れた道のやうに、さつさと脇目もふらずかの花園の間の細道を歩くのである。どこかえたいの知れない所へ連れて來られたといふ不安がその顏に現はれ、きよと/\とした顏つきをし、何か問ひたげにきよろ/\あたりを見まはす、といつたやうな態度をその男に期待してゐた他の患者たちは失望した。靜かではあるが、どこか人もなげにふるまつてゐるやうな落着き拂つたその男の態度に、彼らは何かしらふてぶてしいものを感じ、つひには、へん、高くとまつてゐやがる、といつた輕い反感をさへ抱くやうになり、白い眼を光らしてしれり/\と男の横顏をうかゞつて見るのであつた。
靜かと言へばその男のこゝでの生活は極端に靜かであつた。一日に一度の運動か、時たまの入浴の時ででもなければ人々は彼の存在を忘れがちであつた。だだつ廣い雜居房にただひとり、男は一體何を考へてその日その日を暮してゐるのであろうか。書物とてこゝには一册もなく、耳目を樂します何物もなく、一日々々自分の肉體を蝕ばむ業病と相對しながら、ただ手を束ねて無爲に過すことの苦しさは、隣りの男とでも話をする機會がなければ發狂するの外はないほどのものである。新入の男はしかし、唯一言の話をするでもなく又報知機をおろして看守を呼ぶといふこともない。すべて與へられたもので滿足してゐるのであらうか、何かを新しく要求する、といふこととてもないのだ。しかも運動時間ごとに見るその顏は病氣に醜く歪んではゐるが、格別のいらだたしさを示すでもなく、その四肢は輕々と若々しい力に滿ちて動くのである。
太田が怪訝《けげん》に思ふ事の一つは、その男が今まで空房であつた雜居房に只ひとり入れられてゐるといふ事であつた。今四人の患者のゐる雜居房は八人ぐらゐを樂に收容しうる大いさだから、彼をもそこに入れるのが普通なのである。その犯罪性質が、彼をひとりおかなければならぬものなのであらうか。それならば太田のすぐ一つおいて隣りの、今、村井源吉のゐる獨房に彼をうつし、村井を四人の仲間に入れるといふこともできるのである。村井の犯罪は何も獨房を必要とする性質のものではないのだから。――こゝまで考へて來た太田は、以前その男の顏を始めて見てどこか見覺えがある、と感じた瞬間に心の底にちらりと兆した不吉な考へに再び思ひ當り、今まで無理に意識の底に押し込んでおいたその考へが再び意識の表面にはつきりと浮び上つてくるのに出會つて慄然としたのであつた。――自分の一つおいて隣りの監房に移してはならぬ獨房の男、自分に近づけてはならぬ犯罪性質を持つた男、といへば、自分と同一の罪名の下に收容されてゐる者以外にはないのである。――かの新入の癩病患者は同志に違ひないのだ。そしていつの日にか曾つて自分の出會つた事のある同志の一人の變り果てた姿に違ひはないのだ!
太田はかの癩病人が、自分の同志の一人であらう、といふ考へを幾度か抛棄しようとした。すべての否定的な材料を色々と頭の中にあげて見て、自分の妄想を打破らうと試みた。そして安心しようとするのであつた。太田はあの淺ましい癩病人の姿が、自分の同志であるといふことを斷定する苦痛に到底堪へる事はできまいと思はれた。しかし又他の一方では、確かに彼が同志であるといふ事を論證するに足る、より力強い幾つかの材料を次々に擧げる事もできるのである。彼は何日かの間のこの二つの想念の鬪ひにへとへとに疲れはてたのであつた。その間かの男は毎日思ひ出せさうで思ひ出せないその顏を、依然運動場に運んで來るのである……。
だが、物事はいや應なしに、やがては明かにされる時が來るものである。その男がこゝへ來て一月餘りを經たある日、手紙を書きに監房を出て行つた村井源吉がやがて歸つてくると、聲をひそめてあわただしく太田を呼ぶのであつた。
「太田さん、起きてますか。」
「あゝ、起きてますよ、何です。」
「例の一房の先生ね、あの先生の名前がわかりましたよ。」
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