「太田さん、又新入ですよ。一房です。」興奮をおし殺したやうな村井の聲がその時きこえて來た。單調な毎日を送つてゐるこゝの病人達にとつては、新らしい患者の入つてくるといふことは、何にも増して大きな刺戟を與へる事實であつた。――だからその翌日になつて、朝の運動時間が始まつた時、太田は待ちかねて興味に眼を輝やかせながらその新入の患者の姿を見たのである。そしてその男の姿をちらりと垣間見た瞬間に、彼はおもはずハツと思ひ、輕い胸のときめきをさへ感じてそこに立ちつくして了つたのであつた。うららかな秋の一日で病舍の庭には囚人達の作つた草花の數々が咲き亂れてゐた。その花園の間を縫うて作られた道が運動の時の歩行にあてられてゐるのだが、その歩行者の姿を監房の中からつかまへようとすると、廊下のガラス戸が日光に光つてよくは見えなかつた。その上、監房の扉にはめられたガラスは小さいので、視野が狹く、歩行者の姿がその視界に入つたかと思ふとすぐに消えて了ふのである。――さういふ状態の下に、暫く扉の前に立つてゐて、その新入の男の姿を眼に捕へた瞬間に太田はわれ知らず、おやと思つたのである。
その男は言ふまでもなく癩病患者であつた。しかも外觀から察したところ、病勢は、もうかなり進んでゐる模樣である。まだ若い男らしいのだ。病氣のために變つた相貌から年の頃ははつきりわからないが、その手のふり方や足の運び方には若々しいものが感ぜられるのである。顏はほとんど全面紫色に腫れあがり、その腫れは、頸筋にまで及んでゐた。頭髮はもう大分うすくなり、眉毛も遠くからは見え難いほどである。さほど瘠せては居らず、骨組の逞ましい大きな男である。
その男の運動の間ぢう、扉の前に立ちつくしてまたゝきもせず、男が監房へ歸つてからも胸騷ぎの容易に消ゆることのなかつた太田は、その日から異常な注意をもつてその男の一擧一動を觀察するやうになつた。――太田は確かにその男の顏に見おぼえがあつたのだ。その顏を見る毎に心の奧底をゆすぶる何ものかゞ感ぜられるのであるが、只それが何であるかを俄かに思ひ出す事ができないのであつた。日を經るに從つてその顏は次第に彼の心にくつきりとした映像を灼きつけ、眼をつぶつて見ると、業病のために醜くゆがんだその顏の線の一つ一つが鮮やかに浮き上つて來、今は一種の壓迫をもつて心に迫つてくるのであつた。――夜、太田は四五人の男達と一緒に一室に腰をおろしてゐた。それは大阪のどこか明るい街に竝んだ、喫茶店ででもあつたらう。何かの集會の歸りででもあつたらうか。人々は聲高に語り、議論をし、而してその議論はいつ果てるとも見えないのであつた。――太田は又、四五人の男達と肩をならべてうす闇の迫る場末の街を歩いてゐた。惡臭を放つどぶ川がくろぐろと道の片側を流れてゐる。彼等の目ざす工場の大煙突が、そのどぶ川の折れ曲るあたりに冷然とつつ立つてゐるのだ。彼らはそれぞれ何枚かのビラをふところにしのばせてゐた。而して興奮をおさへて言葉少なに大股に歩いて行く。――今はもう全く切り離されてすでに久しい曾つての社會生活のなかから、そのやうな色々の情景がふつと憶ひ出され、さうした情景のどこかにひよつこりとかの男の顏が出て來さうな氣が太田にはするのである。鳥かげのやうに心をかすめて通る、これらの情景の一つを彼はしつかりとつかまへて離さなかつた。それを中心にしてそれからそれへと彼は記憶の絲をたぐつて見た。そこから男の顏の謎を解かうと焦るのである。それはもつれた絲の玉をほぐすもどかしさにも似てゐた。しかし病氣の熱に犯された彼の頭腦は、執拗な思考の根氣を持ち得ず[#「持ち得ず」は底本では「待ち得ず」]、直に疲れはてて了ふのであつた。しつこく掴んでゐた解決の絲口をもいつの間にか見失ひ、太田は仰向けになつたまゝぐつたりと疲れて、いつの間にかふかぶかとした眠りのなかに落込んで了ふのである。――眞夜なかなどに彼はまたふつと眼をさますことがあつた。目ざめてうす暗い電氣の光りが眼に入る瞬間にはつと何事かに思ひ當つた心持がするのだ。或ひは彼は夢を見てゐたのかも知れない。今はもう名前も忘れかけてゐる昔の同志の誰れ彼れの風貌が次々に思ひいだされ、その中の一つがかの男のそれにぴつたりとあてはまつたと感ずるのであつた。だがそれはほんの瞬間の心の動きにすぎなかつたのであらう。やがて彼の心には何も殘つてはゐないのだ。手の中に探りあてたものを再び見失つたやうな口惜しさを持ちながら、そのやうな夜は、明け方までそのまゝ目ざめて過すのがつねであつた。
その新入の癩病人についてはいろいろと不審に思はれるふしが多いのである。彼はこゝへ來た最初の日から極めて平然たる風をして居り、その心の動きは、むしろ無表情とさへ見られるその外貌からは知ることができなかつた。前からこゝ
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