なものの影になつて壁一ぱいに廣がつてくる。それはえたいの知れない怪物の影であることが多かつた。恐怖をおさへてぢつとその影に見入つてゐると、やがてそれがぽつかりと二つに割れ、三つにも、四つにも割れて、その一つ一つが今も尚故郷にゐるであらう、老母の顏や兄の顏に變るのである。それと同時に夢からさめたやうに、現實の世界に立ちかへるのがつねであつた。――夜寢てからの夢の中では、自分が過去において長い/\時間の間に經驗して來た色々の出來事を、ほんの一瞬間に走馬燈のやうに見る事が多かつた。さういふ時は自分自身の苦悶の聲に目ざめるのであつた。太田は死の迫り來る影に直面して、思ひの外平氣で居れる自分を不思議に思つた。ものの本などで見る時には、劇的な、浪漫的な響を持つてゐる獄死といふ言葉が、今は冷酷な現實として自分自身に迫りつゝある。今はもう不可抗的な自然力と化した病氣の外に、盤石のやうな重さをもつてのしかゝつてゐる國家權力がある。あゝ、俺もこれで死ぬるのかと思ひながら、今までこゝで死んで行つた多くの病人達の口にした、看病夫の持つて來てくれる水飴のあまさを舌に溶かしつゝ太田の心は案外に平靜であつた。俺たちの運命は獄中の病死か、ガルゲンか、そのどつちかさ、なぞとある種の感激に醉ひながら、昔若い同志たちと語り合つた當時の興奮もなく、肩を怒らした反抗もなく、さうかといつて矢鱈に生きたいともがく嗚咽に似た心の亂れもなく、――深い諦めに似た心持があるのみであつた。この氣持がどこから來るか、それは自分自身にもわからなかつた。その間にも彼は絶えずもう暫く見ない岡田の顏を夢に見つゞけた。言葉でははつきりと言ひ現しがたい深い精神的な感動を、彼から受けたことを、はつきりと自覺してゐたためであつたらう。
太田にとつては岡田良造は畏敬すべき存在であつた。只、この言語に絶した過酷な運命にさいなまれた人間の、心のほんたうの奧底は依然うかゞひ知るべくもないのであつた。失はれた自由がそれを拒んだ。太田は寂しい諦めを持つの外はなかつた。――「僕は今までの考へを捨ててはゐないよ。」と語つた岡田の一言は、すべてを物語つてゐるかに見える。しかし、どんな苦しい心の鬪ひののちに、やはりそこに落ちつかなければならなかつたか、といふ點になると依然として閉されたまゝであつた。「僕は今までの考へをすててはゐない、……」それは岡田の言ふ
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