は岡田と話をする機會をつひに持たなかつた。

     8

 灰いろの一と色に塗りつぶされた、泣いても訴へても何の反響もない、澱んだ泥沼のやうなこの生活がかうしていつまで續くことであらうか。また年が一つ明けて春となり、やがてじめじめとした梅雨期になつた。――あちこちの病室には、床につきつきりの病人がめつきりふえて來た。毎年の事ながらそれは同じ一と棟に朝晩寢起きを共にする患者たちの心を暗くさせた。――五年の刑を四年までこゝでばかりつとめあげて來た朝鮮人の金が、ある雨あがりのかツと照りつけるやうな眞ツぴるまに突然發狂した。頭をいきなりガラス窓にぶつつけて血だらけになり、何かわけのわからぬことを金切聲にわめきながら荒れまはつた。細引が肉に食ひ入るほどに手首をしばり上げられ、ずた/\に引き裂かれた囚衣から露出した兩肩は骨ばつていた/\しく、どこかへ引きずられて行つたが、その夜から、この隔離病舍にほど近い狂人《きちがひ》監房からは、咽喉《のど》の裂けるかと思はれるまで絞りあげる男の叫び聲が聞えはじめたのである。それは金の聲であつた。哀號、々々、と叫び立てる聲がやがて、うおーツうおーツといふやうな聲に變つて行く。それは何かけだものの遠吠えにも似たものであつた。――さういふう夜、五位鷺がよく靜かに鳴きながら空を渡つた。月のいい晩には窓からその影が見えさへした。
 梅雨に入つてからの太田はずつと床につきつきりであつた。梅雨が上つて烈しい夏が來てからは、高熱が長くつゞいて、結核菌が血潮のなかに流れ込む音さへ聞えるやうな氣がした。それと同時に彼はよく下痢をするやうになつた。ちよつとした食物の不調和がすぐ腹にこたへた。その下痢が一週間と續き、半月と續き――そして一月に及んでもなほ止まらうとはしなかつた時に、彼は始めて、ただの胃腸の弱さではなく自分がすでに腸を犯されはじめてゐる事を自覺するやうになつたのである。診察に來た醫者は診《み》終ると、小首を傾けて默つて立去つた。
 その頃から太田は、自分を包む暗い死の影を感ずるやうになつた。寢臺の上に一寸立上つても貧血のために目の前がぼーツとかすむやうになると、彼はしばしば幻影に惱まされ始めた。剥げかゝつた漆喰の壁に向つて凝つと横臥してゐると、眼の前を小さな蟲のやうな影がとびちがふ。――その影の動くがまゝに眼を走らせてゐると、それが途方もない巨大
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