ぼしよぼし、絶えず目脂が流れ出てゐた。兩足の指先の肉は、すつかりコケ落ちて、草履を引つかけることもできず、足を紐で草履の緒に結びつけてゐた。感覺が全然ないのであらう、泥のついた履物のままづかづかと房内に入りこむのは始終のことであつた。まだ若い時田舍の百姓家のゐろりの端で居眠りをし、もうその頃は病氣がかなり重つて足先の感覺を失つてゐたのだが、その足を爐のなかに入れてブスブス燒けるのも知らないでゐたといふ、その時の名殘りの燒傷《やけど》の痕が殘つてゐて、右足の指が五本とも一つにくつついてのつぺりしてゐた。二十歳をすぎると間もなくこの病氣が出、三池の獄に十八年ゐたのを始めとして、今の歳になるまで全生涯の大半を暗いこの世界で過して來たといふこの老人は、もう何事も諦めてゐるのであらうか、言葉少なにいつも笑つてゐるやうな顏であつた。時々、だが、何かの拍子に心の底にわだかまつてゐるものがバクハツすると、憤怒の對象は、いつもきまつて同居のかの壯年の男に向けられ、恐ろしい老人のいつこくさで執拗に爭ひつづけるのであつた。
 この四人が太田の二つおいて隣りの雜居房に居り、最初太田はそれだけで、彼の一つおいて隣りの獨房は空房であるとのみ思つてゐた。それほどその獨房はひつそりとして靜かであつたのである。だが、そこにもじつは人間が一人ゐるのであつた。運動に出はじめて間もなくのある日のこと、太田はその監房の前を通りしなに何氣なく中を覗いてみた。光線の關係で戸外の明るい時には、外から監房内は見えにくいのであつた。ずつと戸の近くまですりよつて房内を見た時に、思ひもかけず寢臺のすぐ端に坊主頭がきちんと坐つて凝つとこちらを見てゐる眼に出つくはし、彼は思はずあツといつてとびしさつた。
 次の日彼が運動から歸つて來た時には、その男は戸の前に立つてゐて、彼が通るのを見ると丁寧に頭を下げて挨拶をしたのであつた。その時太田ははじめてその男の全貌を見たのである。まだ二十代の若い男らしかつた。太田はかつて何かの本で讀んだ記憶のある、この病氣の一つの特徴ともいふべき獅子面《ライオンフエーズ》といふ顏の型《タイプ》を、その男の顏に始めてまざまざと見たのであつた。眼も鼻も口も、すべての顏の道具立てが極端に大きくてしかも平べつたく、人間のものとは思はれないやうな感じを與へるのである。氣の毒なことにはその上に兩方の瞼がもう逆轉
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