、佩劍を鳴らす立會の看守部長の存在にはじめて氣づき、同時に迷惑さうな顏をしてゐるにちがひない佐藤辯護士をおもひ起し、心で赤くなつた。彼は急に話をやめ口ごもりながら、自分の饒舌の詫びをいふのであつた。
 佐藤氏は、「いゝえ」といつて、
「それで、今おはなししたやうなわけでしてね、公判もあと一ヶ月ぐらゐのうちなんですから、その前にあなたにいろいろお聞きしておきたいことがあるんです、今日はそれでお訪ねしたんですが」と用件にはいり、書類をぱらぱらめくりながら、「もつとも個々の事實の點は記録にあるとほりでべつにつけ加へることもあるまいとおもひますが、あなたの今の氣持ですね、つまり心境といふやつです、結局公判廷での態度になりますが、それをお聞きしておきたいんです。」と言つたのである。
 古賀は今までの浮きあがつてゐた氣持からたちまち嚴肅な氣持にひきもどされて行つた。いよいよ來た、といふ感じであつた。と彼は急に心の動搖と不安を感じてきた。公判が遲かれ早かれ開かれることがわかつてゐる以上、公判廷にのぞむ態度といふものもある程度まできまつてはゐた。しかし、その態度の如何といふことは古賀の運命にとつてはまさに決定的なものである。從つて事柄のその重要性の前に知らず知らずしりごみし、いよいよといふ時が來るまで、どこか奧の方に曖昧なものを殘してゐたといふことは否めなかつた。その曖昧さが今彼の心に動搖と不安とをもたらし來つたのである。古賀は心を沈めるために、机の上においた手を額にあて首をうなだれて暫らくぢつとしてゐた。氣持はやがて沈まつて行つた。しかし、今決定的な態度をこゝで佐藤氏の前にのべるといふところまではいかなかつた。彼は顏をあげ、もう少し考へてみたいこともある、十日ほど待つていただけまいかと言つたのである。佐藤氏は氣輕にうなづいて書類を鞄にしまひこむと、ぢやあといつて立上り、「近いうちにまた來ます。無理はしない方がいいですよ。」と、あたたかみのある聲で言つた。その言葉の意味はからだの無理をするな、といふふうにも、無理をして心にもない態度をとるな、といふふうにも聞えたのであつた。
 ドアをあけて外へ出かけた佐藤氏はそのときふいにふりかへつて、「あゝ、忘れてゐた。すつかり忘れてゐた、」といつて、もどつて來た。「今日ね、こゝへ來るまへに永井美佐子さんに逢つたのです。用事があつて行けないからといつて五圓あづかつたのでさつき差入れておきましたよ。今夜よそで逢ふとおもひますが、何か言傳てはありませんか?」
 古賀の顏には瞬間ちらりと陰翳《かげ》がさし、複雜な表情が動いたかに見えた。が、それはすぐに消えた。もとの顏にかへつて彼は禮を言ひ、別になにもない、と答へた。永井美佐子といふのは古賀の別れた妻である。
 房へ歸つてくると、暮れるに早いこのごろの日はすでに夕方であつた。からん、からんと、とほくで鐵板製の食器を投げるおとが聞える。雜役夫が忙しげに廊下を走りまはつてゐる。――やがて夕飯がすみ、窓の近くにひとしきり騷がしくさへづつてゐた雀のこゑも沈まつてゆくころには、もうすつかり夜にはいつたらしい。山の湖のやうな、しかし底になにか無氣味なものを孕んでゐる靜寂《しゞま》のなかで、寢るまへの二三時間古賀は自分の考へをまとめようと努力しはじめた。――
 雲のやうにわきあがつてくる思ひのまへに彼はいくどか昏迷しては立ちどまり、自分の行手をふさぐ暗いかげの前におののいては立ちすくむのであつた。息苦しくなると彼は立上つてあるき出し、それからまた坐つた。なんとしても追ひがたくはらひがたいものはしかし、かうした場合、いつも過去の追憶であつた。こゝへ來る人々のすべてがさうなのではあらう、人々は生きた社會生活から隔離され、いきほひ色彩に富んだ過去の追憶の世界にのみ生きるやうに強ひられてゐるのであるから。古賀の場合はしかし、ほかの人々にも増してさうなるべき理由があつた。――彼は自分の短かいしかし複雜な過去の生活にからむあらゆる追憶を丹念にほじくりだし、ひとつひとつそれをなでまはし、舐め、しやぶり、餘すところないまでにして再たびそれを意識の底にしまひこむのであつた。さういふ彼の姿といふものは、いふならば玩具箱からときどき玩具を取出してたのしむ小兒の姿に似てゐたともいへよう。だがやがて彼は過去の世界にのみ生きてゐるやうな、そんな自分自身といふものをさげすむ心になつたのである。しかし生きてゐる人間が死の状態にまでつきおとされ、しかもなほ生きて行かねばならぬとしたならば、さういふ彼を支へてくれる何が一體ほかにあるであらう。苦《にが》い追憶も今はかへつて甘いものとなり、――過去の世界はその度ごとに新らしい感懷を伴つてなほも幾たびかよみがへつてくる。――
 三年前の春のある事件以後、一時的に混亂に陷入つた(原文六字缺)にとらへられた古賀は、(原文二十二字缺)を迎へたのであつた。とらへられた始終のいきさつについては、今(原文二十一字缺)はある。古賀は少くとも自分一個に關するかぎりヘマはやらぬとの自信を持つてゐたのだが、組織の仕事のことゆゑ、ほかからくる破綻といふものは拒ぎきれぬ場合も多いのであつた。他の同志がつくつた場所が、(原文七字缺)とおもひながら出かけても行かねばならず、さういふとき、自分の身の安全をばかり考へてゐるわけにはゆかぬ。思ひつきの便宜主義、――それが古賀の場合、(原文二字缺)を來たした結局の原因であつたが、だがそれも、經驗のすくない若い組織のことゆゑ、やむをえないことであつたらう。さうしたことを今さらおもひかへしてみたとて何にならう、(原文二十一字缺)のだ。古賀はその確信に安んじ、こゝへ來てからの彼は、たゞひたすらに(原文八字缺)はづかしくない態度をとることにのみ心を碎いたのであつた。彼の心の構へはきまつてをり、腹の底は案外におちつきはらつてゐた。古賀はかねてから、腹といひ度胸といふのも、畢竟は時々刻々に變化してやまない外界にたいする、あるプリンシプルのうへに立つたうへでの自己の適應能力にほかならぬ、と信じてゐたのであるが、數年このかた、多くの先輩である同志たちが、次々に連れ去られて行つた、その度ごとにうけた激動と、その激動が次第に沈靜してゆく過程のうちにあつて、さういふ場合に處する彼の心構へも自然にある程度まではできあがつてゐたものであらう、ことさらに氣張り、堅くなつた頑張りではなく、冷やかな落ちつきが、意地のわるいやうなふてぶてしさが、古賀の心の基底をなしてをつたといへる。さうして彼はまたさういふ心を意識してはぐくみそだてたのであつた。事實またそのためには、(原文七字缺)といふものはほかに見出しえようとはおもはれないのだ。(原文五字缺)を毎日目のまへに見せつけられれば見せつけられるほど、それを肥料として(原文十二字缺)心が一日々々(原文二字缺)してゆくのである。あらゆるあまいものを嘲笑し、あたゝかいものをしりぞけ、喜怒哀樂の感情を忘れはてた人のやうな假面のやうな表情で彼はそこに座つてゐた。だがその無表情な假面のかげにかくされてゐる無言の(原文六字缺)人々は容易に見拔くことができたのである。やがては恐ろしさといふものを知らない人間にまで鍛へあげられるであらうなどと、わづかばかりの苦難に耐へえた經驗から思ひ上つてゐたのは笑止で、いくばくもなく古賀はどん底の闇につき落され、はかりがたい現實の冷酷さをいやといふほど思ひ知らされねばならなかつたのである。――ここでの古賀の生活はさういふふうにして毎日平穩にすぎて行つた。すこし氣に入つた本がはいつた時などは、自分が今かうしたところにゐるといふことも忘れてそれによみふけり、巡囘役人の佩劍の音に讀書の腰を折られる時にはじめてわれにかへつて、今の自分の境遇におもひいたる、といふことも珍しくはないのであつた。
 さうかうしてゐるうちに古賀は六ヶ月ほどの懲役に服さなければならぬ身となつた。彼は以前ある爭議に關係し、當時進行中の刑事々件がひとつあつたのである。それがちやうどこんどの新らしい豫審中に確定したのであつた。それは昨年の春のことであつた。豫審中であつたので、そのまゝこゝの未決監にゐて刑の執行をうけることになつた。仕事は封筒はりであつた。
 殘刑期も殘り少くなつた八月の三日のことである。その日は入浴日で古賀は風呂にはいつてゐた。五日に一囘、それも着ものを脱ぐ時からあがりまで十五分しかゆるされないその入浴が、どんなに彼にとつてたのしみであつたことか。その年の夏は四十年ぶりとかの暑さであつた。その暑さはこゝではまた格別だつた、房のなかでは、霍亂を起し卒倒するものが一日に一人はあつた。突然に(原文四字缺)ものもあつた。「お前、梅毒をやつたことがあらうが、かういふ時にや、頭へあがつてバカになるんだ、氣イつけろ」まじめなのか、それともからかつてゐるのか、看守がげらげらわらひながらさういつてゐるのを古賀は一度ならずきいた。この暑さのなかでうだり、健康な人間の肉體も病人のそれのやうに腐りかけてゐた。古賀のゐたのはちやうど西向きの房であつたから、長い夏の日半日はたつぷり炒りつけられるのであつた。古賀は苦しくなると窓によつて脊のびをし、小さな鐵格子の窓にわづかに顏をおしつけて、さかなのやうに圓く口をあけてあへぎながら、少しでも新らしい空氣を呼吸しようとするのであつた。坐つて仕事をしてゐると、時々かるい腦貧血を起した時のやうに目の前がぽーつとかすんでくる事がある。さういふ時には前においてある封筒をはる作業臺の上に思ひつきり額をうちつけて、その刺戟でわれにかへるのであつた。だが、何にも増して彼がそのために苦しんだのはひどい汗もと血を吸ふ蟲とであつた。古賀の身體は、青白い靜脈が皮膚の下にすいて見えるといつたやうな、薄弱な腺病質からははるかにとほいものである。拘禁生活もまだ一年足らずで、若々しい血色のいい皮膚はまるく張り切つてさへ見えたのであるが、それが土用にはいると間もなく眞赤にたゞれてきたのである。しぼるやうに汗みづくになつた(原文四字缺)が粗い肌ざはりでべとべとと身體にからみつくのであつた。夜は夜で汗もにただれたその皮膚のうへを、平べつたい血を吸ふ蟲がぞろぞろと這ひまはつた。おもはず起き上り、敷ぶとんをめくつてみると、そのふとんと蓙《ござ》の間を長くこゝに住みなれ、おそらくは(原文七字缺)の血を吸ひとつたであらう、貪慾な夜の蟲どもが列をみだして逃げまどふのであつた。おなじやうに眠られないでゐる男たちの太い吐息が、その時いひあはしたやうにあちらこちらからもれてくる。――さういふ古賀が、どんなによろこんで五日に一度の入浴を待ちかねてゐたかは想像するにかたくはない。
 疊半分ぐらゐの一人入りの小さな湯ぶねである。古賀は既決囚であつたせゐか、いつもいちばんあとまはしにされ、その日もやはりさうだつた。彼がはいるまへにもう何人の男たちがこの湯ぶねの湯を汚したことであらう。半分に減つてしまつた湯のおもてには、(原文二十九字缺)。足を入れると底は(原文四字缺)であつた。それからなにか、(原文八字缺)のやうなものも沈んでゐるらしく足の先にふれるのであつた。洗ひ場を見ると、そこはまたそこで、コンクリートのたゝきの上には、(原文十三字缺)とくつついてゐたりするのであつた。(原文十二字缺)川のやうな臭ひもながれてゐた。――しかしさういふ不潔さにはもうみんなが慣れてゐたのである。だいいち、不潔だなどといつてはゐられないのだ。古賀もまたさうだつた。古賀はからだをとつぷりとその湯のなかにつけた。ただれた皮膚にぢーんと湯がしみる。無理に肩までつかつてぢつと目をつぶつてゐると、彼はいつもなにかもの悲しい、母のふところにかへつてゆく幼兒の感傷にも似たものおもひに心をゆすぶられるのであつた。――しかしさうしてをれるのも、ほんのわづかのあひだである。「もう時間だぞ、出ろよ」と、擔當看守がそこの覗き穴からのぞいて言つて行くからである。さう言はれてから、古賀はあわてゝからだを洗ひはじめるので
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